桂米左師匠による、ご自身の師匠・三代目桂米朝師匠との思い出コラム第3弾。生前、米朝師匠が弟子たちによく言っていた言葉とは?その言葉が実感できたのは、米朝師匠が極楽座に旅立たれてからだそうです。
米朝師匠が旅立たれて5年経った今、米左師匠は何を感じているのか。米左師匠の筆がキラリと光る思い出コラム、今回も必読です!
続・師匠 桂 米朝
入院のまま終戦を迎え会社勤めの傍ら、姫路で落語会を主催したり落語とのかかわりを続けていきました。
遂に昭和22年、四代目桂米団治に入門を致します。米団治師匠に入門した理由の一つに「落語を理論的に説明できる人で当時としては珍しかった」と言ってはりました。
「米朝」と名づけられましたが「米朝」と言う名前は中堅どころの名前で、前座に付けるものではなく「いづれ君に米朝をやる」と師匠に言われたのを早合点して、正岡先生に「米朝という名前を頂きました」と報告し、そのまま「米朝」となったそうです。
以来一度も名前を変えることなく終生「米朝」を名乗り、中堅どころの名前を演芸史、いや歴史に残るような名前に育て上げました。
入門後、僅か4年ほどで師匠米団治が亡くなります。ここで師匠米朝が「55歳寿命説」と言うのを思い始めます。というのが実父、先生、師匠という人生の師三人が満或は数えの55歳で亡くなっているので「自分も55で死ぬかも」という思いが出てきたそうです。
以降55歳までの仕事は皆様周知のとおりです。米朝の集大成ともいえる音、活字での米朝落語全集も55歳で完了しています。
この全集は上方落語の財産であり教科書であり解説書であり、バイブルでありマニュアルでありガイドブックであり……もうええっちゅうんですが……。
また埋もれていた数々の噺を復活させ商品になる落語に仕立て直したり、今に残る昭和の名作『一文笛』等の落語を創作したりと、上方落語を全国に広め後進の育成にも力を注ぎました。
研究家としての一面も凄く著書も多数あり、その知識も底知れぬものです。枝雀師匠宅では「広辞苑持って来て」というのを「米朝師匠持って来て」と言うてはったそうです。
私なんかの質問でも「ワシの本の何ページ目くらいに書いてあるはずや」とか「何々と言う本の何ページに……」と答えられ実際その通りでした。ホントびっくりです。
芸人、指導者、研究家、どれを取っても一流になるのは大変な事ですが、師匠はそれを一人で成していました。
面白いのは三人の息子さんがそれぞれを受け継いでいます。芸人は長男五代目米団治師、指導者は二男さんで高校の校長先生、研究家は三男さんで考古学者と、よく出来たものだと思います。
それらの功績が認められ紫綬褒章、文化功労者、文化勲章の栄に浴してます。果ては従三位の位まで頂いてはります。水戸黄門と同じ位です。
師匠がよく言ってはりました。「おまはんらワシの事どない思ってるか判らんけど、ワシが死んだら判るわ」と……。
本当によう判りました。こんな凄い人の弟子にして頂き私は幸せ者です。
ここに記しました事は皆様が思っている感じている「米朝像」ですが、身近に居てましたらお茶目なところもありました。
それはまたの機会に・・・。
次回予告
桂米左師匠の次回コラムは、6月28日を予定しています。遂に米左師匠の入門秘話です。米朝師匠へ弟子入りをお願いするのに、米左師匠が取った方法とは?甘酸っぱい青春を一緒に味わいましょう。お楽しみに!
米左師匠はブログ(https://ameblo.jp/rice-left/)も随時更新中。米左師匠が日常で感じることをつづっておられます。要チェックです。