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②師匠 桂米朝~師匠桂米朝と過ごした日々:桂米左

寄席芸人コラム
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上方演芸で初めて人間国宝に認定された、三代目桂米朝師匠。その米朝師匠の誕生から終戦後の米団治師匠入門までを駆け足で振り返ります。陸軍に入隊したものの「?」な出来事があったようです。

米朝師匠から直接思い出話をうかがった直弟子の米左師匠がつづる、米朝師匠との思い出話第2弾です。昭和初期に思いを馳せて読んでいきたいですね。セピア色の世界をご堪能ください。

師匠 桂米朝

桂米朝という方が私桂米左の師匠です。

改めて申すことではないのですが・・・。

まぁ、師匠の紹介をば。

大正14年(1925)11月6日、関東州(現中国)大連に生まれる。なぜ大連かと言いますと、師匠のお父さんが大連市普蘭店の郵便局長をされてたからです。大正14年生まれの噺家は故笑福亭松之助師匠もそうです。東京の桂米丸師匠も大正14年です。米丸師匠はご壮健で今も高座を務められております・・・。す、すごい!

昭和5年にお爺さんが亡くなり、神職を務めていた神社を継ぐ為に姫路へ帰って来はりました。「お宮の子やねんからちゃんとせなアカンで」と近所の人によう言われたと。この昭和5年に三代目桂春団治師匠と五代目桂文枝師匠がお生まれになってます。

以降、18歳で大東文化学院入学の為、上京するまで姫路で暮らしてはります。

その間、父親に連れられ大阪の寄席や芝居を観たとの事。その時に一回だけ聞いた噺を覚えていて、滅んだ落語を復活させる時に役に立ったとも言うてはります。

この上京中に、最初の師匠となる寄席研究家正岡容(まさおかいるる)先生との出会いがあります。この出会いの一件はまた後程に。

20歳の時、陸軍に入隊のため姫路へ帰って来ました。入隊すると二度と見られないかも知れないという思いから、入営までの間に芝居や寄席に行ったそうです。その時すでにお付き合いのあった五代目笑福亭松鶴師匠(六代目松鶴師匠の実父)に「今度入隊します」と挨拶に伺うと

「そしたら君が聞いたことない噺をしたるわ」

と言って『牛の丸薬』をして下さったそうです。多分この一回でこの噺を覚えはったのではないかと思います。

す、すごいです・・・。

戦局厳しい昭和20年、訓練を重ねて祖国を守る為いざ前線へと思いきや、入隊すぐの結核検診(ホントは違うそうですが、師匠は私にこう言いはりました)で引っ掛かりすぐに陸軍病院に入院、ただその後の検査では陰性続きで異常は見られず健康体そのもの・・・

誰かと間違われたらしいです。

ホントの病気の方は中川二等兵の代わりに戦地に行かれたみたいです。

これは落語の神様が

「この中川と言う青年は将来の上方落語にとって無くてはならない人物。今ここで死なせるわけにはいかない。」

と言う思いが動いたのかも・・・と私は思います。

そういう方々のお陰で今の落語が出来る世の中になりました。忘れてはならない事ですし感謝しかありません。

入院中、他の入院患者の前で落語をしはったそうです。その中には上方落語屈指の大ネタ「立ち切れ線香」もあり、この話を聞いた時はびっくりしました。

また『くしゃみ講釈』に出てくる〽オケラ、毛虫、ゲジ、蚊にボウフリ、セミ、かわず、ヤンマ、蝶々にキリギリスにハタハタ、ブンブの背中はピーカピカ・・・と言う世にもケッタイな歌を気に入った皆にせがまれ黒板に書いて教え、よう流行ったんやと嬉しそうに懐かしんで言うてはりました。

終戦を迎え晴れて米団治師匠に入門するのですが、本日は紙幅が尽きました。

続きは次項にて。

次回予告

桂米左師匠の次回コラムは、6月28日を予定しています。米朝師匠が生前、弟子たちによく言っていたこととは何だったのでしょうか?それを米左師匠が実感できるようになったのは、いつだったのか?次回もお楽しみに!

米左師匠はブログ(https://ameblo.jp/rice-left/)も随時更新中。米左師匠が日常で感じることをつづっておられます。要チェックです。

執筆者
桂米左

昭和40年大阪府大阪市に誕生
昭和59年3月、三代目桂米朝に入門
スマートな容姿と端正な語り口の正統派上方落語家。長唄囃子望月流の名取の一面も持つ。錦影絵の復興にも取り組み、時代の波に消えゆくものを守ることに心血を注ぐ。カラオケでは昭和歌謡を好み、休日に楽しむDVDは昭和の時代劇や特撮映画。古き良き時代を愛し深く追求するからこそ、過ぎ去った浪花の風景を高座で再現ができる。

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