桂米朝師匠の19番目のお弟子さんである桂米左師匠。その桂米左師匠が入門したのは、今から36年前のこと。芸歴37年目にして、入門当初のことを思い出していただいています。
内弟子なのか通い弟子なのか?芸名の由来は?そして、桂米朝師匠から教えていただいたことで、今も桂米左師匠の心の芯になっていることとは?
今回もエピソードが盛りだくさんです。じっくりお読みください!
入門後
昭和59年3月27日(本当は26日でしたが師匠の仕事の都合で27日に)憧れの桂米朝の弟子にして頂きました。住み込みの内弟子です。
噺家の芸名は師匠の名前の一文字を入れて付けてくださいます。米朝でしたら「米」か「朝」。私は「米」の字を頂き「米左」になりました。
芸名を頂くまで最低でも一か月はかかります。名前を付けたわ、すぐ辞めたわでは困るし、やっていけるかどうか見極める時間も要る訳です。
ところが私は入門したその瞬間から「米左」でした。それどころか前日から「米左」でした。内弟子中の兄弟子二人に「明日から来るやつ米左にするさかい」と言うてはったそうです。
芸名は師匠が考えて付けてくれはりますが、弟子が多くなると考えるのも邪魔くさくなるのか、出身地や本名から字を取って付けてはりました。
伊勢出身で勢朝、平岡さんで米平、浩之さんで米裕。
米裕兄に至っては字を間違えたと師匠が言うてはりました。噺家の名前なんてええ加減なもんです。ハチの頭でも猫のフンでも何でもええんです…けど実際に猫のフンと付けられたらイヤですが…。
私はと言いますと本名に「左」が入ってる訳でなく「左」が地名に付く所に居った訳でなし…ではなぜ「米左」になったかというと、どうやら師匠がこの名前が好きやったみたいです。
初めは15歳で入門した関口少年(現ざこば)に付けようと思てはったみたいです。ですが友人に「小米(枝雀)と米左やったら米・米と続くし、長谷川一夫は林長丸から出世したさかい朝丸にしたらどうや。それに丸は子役に付ける字やし」と言われ朝丸にしはったそうです。
以来、心の中で温めていたお気に入り(?)の名前を私に付けて下さった。それだけ私に対する期待が大きかったという事だ。ウン、そういう事にしておこう!
その様な話は師匠はせず私には「芸名に右や左を付けるのは昔からある形やが、今は東京にはあるが大阪にないさかい米左にする」…と言いはりました。
なる程、そういう理由もあったのか…。
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私が入門した事で干支が揃いました。巳年だけが欠けていたそうです。それと「とうとう昭和40年生まれが噺家になったか」と感慨深げに言いはりました。
まァこの二つだけでも師匠の期待に応えたかなと…そうです、応えたんです、ハイ!
入門した時に師匠に言われた言葉があります。
「履物を揃えなさい。ワシだけのやない先輩後輩関係ない。その場の履物を揃えなさい」
これは噺家にとって気遣い心配りが大事だという事を教えて頂いたと思っております。
あとこれは、きつく言われ心に留まっていて私の芯になっております。
「お前より下の人間はこの世の中に居らんのや。芸人の、噺家の見習いなんか世の中の一番下の人間で何の役にも立たんのや」
この言葉、本当にその通りです。この言葉を言われた言われてない、知っている知ってないでは覚悟に大きな違いがあると思います。
…あくまでも私見、ハイ。