ちゃきちゃきの江戸弁で軽快な高座の三遊亭遊喜師匠。実は、出身地は静岡県島田市です。緑豊かな町で、昔と変わらない風景が今も堪能できるそう。
そこで生まれ育った三遊亭遊喜師匠に、島田市での思い出をつづっていただきました。昭和47年生まれですのでベビーブーム真っ只中、たくさんの仲間との思い出があるそうです。お楽しみください!
駄菓子屋と剣道
コラムもあっという間に3回目。今回は前回の「どうしてこの両親から落語家が生まれたのか謎ですよ」の謎に迫ってみます。
先ず幼少の頃からたどってみますと、島田中央幼稚園に通っていました。この幼稚園はお寺さんが経営をしていましたので、遊ぶところが境内。飛び回って遊んだり、うっすらとしか記憶にないのですが 鼓笛隊で太鼓叩いたり鉄琴ならしたり。そんなことは覚えています。
多分それなりに事件はあったと思いますが、残念ながら当時の記憶はそのぐらいしか覚えていません。
落語家になってからはこのお寺さんでの落語会に呼んでいただき、とてもご縁を感じます。感謝。
島田第一小学校に通うようになってからは行動範囲が広がり、クソガキ街道まっしぐらで。学校から帰ったらすぐに出かけて、暗くなるまで外で遊んでいました。低学年の頃はまだファミコンがなかったですからね。
ベビーブーム世代ですし子供も多く、近所に先輩後輩が大勢。なんだかんだ先輩には可愛がってもらいました。が、正直なところ、勝手にそう思っていただけで先輩をいじったりしていた可能性は高いです。
公演で地元に帰って打ち上げなどで先輩にお会いすると、本当に生意気だったと言われることが多く誠に恥ずかしいかぎりです。
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遊びと言っても周りは田んぼや畑、山、川ですから、自然を相手に遊んでいるといった感じで。
近所のおばあちゃんがやっている駄菓子屋も何件かありましたから、小遣いもたいしてないのに駄菓子屋のはしごをしていました。
考えたら今現在の飲み屋のはしごに近いものがあるかもしれません。すでに小学生ではしご好きだったとは、人間そう簡単には変われないものです。
当時は小学3~4年生ぐらいなるとみんな、町内のソフトボールチームに入って土日に練習や試合をする日々。隣がサッカーで有名な藤枝市ということもあり、サッカーチームに入っている友達もいました。
ソフトボールも好きだったのですが、だんだん自我が芽生えてきたのか剣道の道場に通うようになります。なぜやりたかったのかは未だに不明です。みんながやっていないものをやりたかったのかもしれません。結果、この剣道が高校まで続くのですが。
とはいえ、そこそこサッカーも盛んな地域でしたし、同学年に日本代表にもなった藤枝出身の名波選手がいましたから、地元の同級生から当時の名波伝説を聞くと「サッカーもやってみたかったな」と大人になってから思います。
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剣道は週3回稽古に通い、日曜日は大会があれば試合で遠征していました。
6年生の頃は軟式野球チームにも入っていて、試合が剣道と野球と重なってしまうので どちらがやりたいかを天秤にかけて剣道を選ぶことになります。
剣道での遠征は県外も多く試合も楽しみでしたが、県外に行くというだけでなんだかウキウキして楽しかったです。九段下の武道館へは何回か大会で参加させていただきました。今となってはいい思い出です。
剣道の腕前は自分でいうのもなんですがそこそこ上手かったですよ(笑)。
剣道は団体戦もありますが基本は一対一の個人競技なわけで、相手のほんの一瞬の隙(間)をつくスポーツというか武道です。
落語も相手(お客さま)がいて一個人の話芸なわけで。お客様との間が大事な芸です。
そう意味では剣道をやっていたことが、落語家になるにあたって影響していたのかもしれません。
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剣道と言えば先代小さん師匠が有名ですが、実は落語芸術協会でも経験者が多いのです。落語と剣道は何か通じるものがあるのではないか?と最近よく思うようになりました。
剣道についてはまたどこかで触れたいと思いますが
私にとって剣道をやったことは、落語家になるにあたってのスペックを一つ手に入れていたのかもしれませんね。
振り返りながら自分を分析するのは面白いけど、なかなか難しいとコラム3回目にして感じる今日この頃です
つづく