夏といえば海!三遊亭はらしょうさんもそう思ったそうで、海に出かけることにしたのだそう。その道中、色々あって…。
はらしょうさんならではのセンスが光る私小説です。残暑厳しい今だからこそ読みたいですね。
私小説『芸人と海』
七月のある朝のことである。
午前中の予定がなくなってしまった俺は、丸一日フリータイムになった。
だからといって、暇であるという訳ではないのだが、別段、急ぎの用が見当たらない為、早速、俺は暇であるということになった。
そうと決まれば、どこかへ出かけるのが有意義な一日といえよう。
近場にある映画館もよいが、映画などはいつでも行ける。
せっかくだから、何か夏らしい場所はないものかとネットを見ていると、今年はまだ一度も海に行ってないことに気付いた。
俺は毎年必ず一回は海に行くのだが、まさに今日が相応しい日ではないのか。
というのも、まだ朝8時である。今いる練馬のアパートから直ちに出かければ、10時頃には江ノ島あたりには着く。敢えて遠回りである江ノ電に乗り換えたとしても、10時半迄には着く。これは紛れもなく、今日が俺の海開きの日ではないか。
そう答えが出た瞬間、居ても立っても居られなくなってしまった。俺は急いで海パンの準備をした。準備とは、俺の場合、家から海パンを履いて行くことである。これなら海の家のロッカーを利用しなくても済む。到着と同時に、砂浜から流れるように海へダイブできる。勿論、着替えの下着は持参し、海岸にある仮設トイレで履き替える。
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そうと決まれば!さぁて出発!という段になった時に、はて、俺は本当に海に行きたいのだろうか?と、玄関の前で立ち止まってしまった。たまたまフリーになったから、非日常を過ごさないと人生損しているのではないか?いったん、そう考え始めると、海に行くことが軽い奴に感じはじめてきた。俺はそのままイメージを続けてみた。
海の家で、缶ビールを飲み、中華そばを食べ、氷イチゴを食べ、砂の付いた海パンのまま畳の上に寝転がって、ジャリジャリしながらウトウトし、潮風を感じていると、一瞬、強く吹いた風で、テーブルの上にある食べ終わった氷イチゴの容器が倒れて底に残っていたイチゴシロップが畳にたれ、甘い匂いで余計に夢心地になって、アナログスピーカーから聴こえて来るレゲエ音楽とサザンオールスターズにリズムをとりながら目を開け、もうひと泳ぎして、夕方の江ノ電からの景色を眺めながら、もう一本、缶ビールを飲みながら家に帰って来る。
そんな流れが走馬灯のように、いや、それだったら死んでるから、映画のフィルムのように描かれた。
「よし、海に行こう」
俺は独り言を呟きながら、玄関のドアを開けた。
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開けたのだが、ううう。猛烈に暑い。最寄り駅までも躊躇する。だが、この先にあるのは海だ。海は広いな大きいな。だけど、遠いな!2時間以上かかる。道中、電車にクーラーはあるが、江ノ島駅を降りてから海岸までをイメトレすると、俺は家にいた方がよかったのではないかと、その時点で2本目のアクエリを飲んでいる俺の干からびそうな立ち姿が想像された。
本当に行くべきなのか?俺はドアを閉めたかったが、たった今、部屋を出ようとクーラーを切ったばかりなので、もう一度スイッチを入れるのは電気代が高くなる。やはり思い切って出かけよう。
ルンルンルン♪麦わら帽子。アロハシャツ。短パン。サンダル。誰が見ても海に行くスタイルの俺が練馬駅に向かって歩いている。サングラスもかけたかったが、青い海をまじりっけなしに目に焼き付けたいから、いつもの普通の眼鏡のままにした。
照りつける日差しの中、もう既に江ノ島に着いたような心持ちになっている。気のせいか、海の香りがしてきた。練馬駅前にある、たいやき屋のたいやきが、生きて泳いでいるようだ。まさに、「およげたいやきくん」である。
予想よりは暑くなかったので、あとは切符売り場までの階段を登るだけである。さっさと行けばよいものを、傍に本屋があるので、江ノ島ガイドブック2025のようなものはないものかと、少しだけ入ることにした。
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本屋の中のクーラーは、冷蔵庫を開けた時の冷たさに似ている。俺は冷蔵庫の奥に、いや、本屋の奥にある「旅行コーナー」へ行き、神奈川に関する本を手当たり次第見ていった。いつの間にか『地球の歩き方~神奈川』が発売されており、思わず手に取った。昔は海外版だけだったが、最近は国内版も充実している。ページをめくって行く内に、俺はすっかり江ノ島に行ったような気持ちになってしまったので、慌てて棚に戻した。
外へ出ようとしたが、レジの横にある特設コーナーで、芥川賞・直木賞特集をやっていた為、思わず立ち止まってしまった。昨日のニュースで、両賞、該当作なしと言っていたからである。それによって本屋の売り上げは大きく変わるようだ。特設コーナーには実際にノミネートされた作品をまとめて並べ、「全部面白い!」とポップが書かれていた。俺は候補作をパラパラとめくった。確かに全部面白い!そのまま20分以上、読みふけってしまった。いや、何をしてるんだ。俺は海に行くんだぞ!店を出ようと思ったが、これからの移動時間、どれか一冊買うのはいい選択かもしれない。
だが、レジに持って行く途中、踵を返し、棚に戻した。荷物が増えてしまうのは暑いなか疲労感が増す。それに、砂が本にかかって、帰宅してから続きを読んでいる最中に砂が落ちてきたら、砂まじりの茅ケ崎、ならぬ、砂まじりの練馬になってしまって不愉快である。砂まじるのは、海岸のみ快感なのだ。
以上のプランで俺は本屋を出た。さぁ目の前の階段を登れば、練馬から神奈川にワープする。ワープするんだ。ううう、暑い。今すぐビールが飲みたい!飲みながら行くか。すぐそこにセイユウがあるから、すぐ夢は叶う。が、すぐ叶ったらビールは美味くない。海の家まで我慢だ。ううう、あと2時間以上はどうかと思う。俺の喉が、どうかと思うと、ごねはじめている。とりあえず根本的に、今、暑い。まずは根本的に涼しい場所へ行こう。
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俺はその足でもう一度本屋へ入った。そして、候補作の本を一冊買ってしまった。そして、セイユウへ入ってビールまで買ってしまった。そして、そのまま家に帰ってしまった。
帰宅した俺はクーラーを入れた。本を読みながら缶ビールのフタを開けて、ぐびぐび飲んだ。そういえば、俺はまだ海パンを履いたままだった。
