三代目桂春団治師匠の四番弟子、桂春若師匠の思い出コラムです。四番といえば野球なら長打力の最強打者。三代目桂春団治師匠と春若師匠を強く結びつけたのも、野球だったそうです。
上方落語界の野球チームでのほのぼの(?)エピソードも交えた、春若師匠の若き日のお話をご堪能ください。昭和40年代の風景が目に浮かぶようです。
春団治に入門
私は子供の頃から、東京の立川談志師匠のファンでした。
昭和42年談志師匠司会の「笑点」の公開録画が、大阪御堂会館でありました。お会いしたいと思い高校をサボって楽屋口で待っていました。
小痴楽師匠、こん平師匠、金遊師匠は出て来はったんですが談志師匠は中々出て来ません。
受付へ行っても聞いてみますと
「もう帰らはりました」
「えー!」
他の手立ても浮かばず、仕方なく次の機会を待とうと…
『笑点』は2本撮りでした。大喜利の前に演芸が一組あります。1本目が海原お浜、小浜師匠、2本目が桂春団治です。(ちなみに前説はスカタンボーイズ、後の広沢駒蔵師匠も出演されていました)
師匠春団治の生の落語を初めてその時聴きました。ネタは『代書屋』です。
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それから寄席落語会通いが始まりました。
角座、ABCホール、日立ホール(後の心斎橋2丁目劇場)etc
別に春団治の追っかけではなかったんですが、いつ観に行っても家(うち)の師匠が出たはりました。『いかけ屋』『代書』『髙尾』『祝のし』『皿屋敷』『お玉牛』…これが又上手いんです。(当たり前や、怒られまっせ)
よし、この人の弟子に成ろうと、角座の楽屋へビクビクしながら行きました。
舞台ソデで
「弟子に成りたいんです」
「今朝も一人で来たんやけど…家は親の承諾がいるねん、ご両親つれといで」
次の日曜日両親と当時、南住吉に住んでいた春団治宅へ。
母親は
「高校だけは出しときたい…」と。
師匠は
「ほな学校出てからおいで、日曜は遊びにきたらいいさかい」と。
と云う事で昭和45年3月入門と成りました。
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師匠はキチッリしてて厳しいと云う噂でしたが、私には優しかったです。
好きなものは【酒と女と南海ホークス】
これが私に優しかった理由です。
師匠の周りはほとんど阪神ファン、大好きな南海ホークスの話をできる人がそばにいなかったのです。私は当時は、南海の試合を年間30~40試合ぐらい観戦していました。
元々よく喋る師匠ではなかったんですが、野球は別。
「昨日観に行ったんか 杉浦よかったんか?…広瀬は…野村は…杉山は…小池は…国貞は…」
噺家チームでも現役です。総監督は六代目松鶴師匠。春団治は選手兼監督、出番は試合の後半です。特技は盗塁、出塁は必ずフォアボール(ヒット打ったん見たことありません)
そして2盗、3盗、盗塁失敗しても審判は手を上げる(アウト)ことはできません。なにしろ「春団治」ですから…。
ある試合、同点で最終回。3塁ランナー春団治(この時も四球出塁で2盗3盗)
2アウト、バッターボックスは桂べかこさん(今の南光師)
ピッチャーが第一球を投げようとしたその時、3塁から春団治の声
「べかちゃんどいてどいて」
野球にあまり詳しくないべかこさん、何やわからず、「まだ、打ってへんのに」と思いながらも打席をはずすと、春団治のホームスチール。
タイミングはアウト。しかし春団治ルールでセーフ。サヨナラ試合で勝利。
上機嫌で帰宅して家で宴会。
楽しい修行生活です。