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⑤ラジオの沼~東海道島田宿からお江戸へ:三遊亭遊喜

三遊亭遊喜

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校内暴力の嵐が吹きすさぶ昭和60年代、三遊亭遊喜師匠は中学生でした。三遊亭遊喜師匠が通っておられた島田市立島田第一中学校も例にもれず、校内暴力全盛期でした。そんな中、剣道に打ち込んでおられたようですが、ラジオにものめりこんでいかれたのだそう。

今回は三遊亭遊喜師匠のラジオ沼についてつづっていただきました。残されているテープは捨てずに、どこかに寄付していただきたいです。そう思える内容ですよ。お楽しみください!

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ラジオの沼

中学校へ進み、ヤンチャな先輩たちに囲まれ剣道部でにやにやしながら過ごしていたわけですが、校則も厳しかったこともありそれなりに抑圧されていたのか、深夜ラジオにはまっていきます。

当時はビートたけし・とんねるず・鴻上尚史・中島みゆき・伊集院光・三宅裕二 (敬称略)などなどの皆さんをよく聞いていました。聞き出した頃は残念ながら鶴光師匠のオールナイト ニッポンは終了していて、すでに伝説になっていました。 

今考えたらラジオ全盛期だったのかもしれませんね。こんなに豪華なメンバーが深夜ラジオのパーソナリテイーを担当していたのかと感心してしまいます。

オールナイトニッポンは深夜1時~3時の一部と3時~5時の2部があり、静岡のSBSでは1部しかネットされないため、2部からはニッポン放送にチューニングを合わせて雑音まじりで2部を聞いていました。日曜日は『南野陽子のナンノこれしきっ!』かなー。 

今思えばよくそんなに聞いていられたよなと思いますが、ラジオの面白さにとりつかれどんどんラジオの沼へどっぷりとつかっていきました。

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結局、中学でラジオにはまり、そんなラジオの沼は高校大学とつづいていきます。完全にこじらせた、今で言う中二病ですよね。 

その当時はそんな言葉はありませんでしたが、正直今でも中二病かも知れません。

地元のAMやFMまでもチェックしはじめ、よく録音もしていました。先日実家に帰った時にまだテープが大量に残っていました。いいかげん処分しなければいけませんね。

興味を持ったパーソナリテイーがどういう過程で今があ るのか?と色々情報を収集すると、高校や大学で落語研究会に入っていたとか演劇部だったとか、バンドを組んでいたとかが結構多いことに気が付いてしまったわけですよ。

思春期の中二病の時期に気が付いてしまったからたちが悪いです。「落語研究会ってなんだよなー」とか「演劇なんかやっているやつ見たことないけど、そんなもの島田にあるの?」などなど。

潜在意識の中でやってみたいなという感情が沸き上がるのですが、いかんせん田舎町ですから触れる機会がほとんどないわけです。

当時、地元の学校の芸術鑑賞はクラシックの音楽鑑賞か演劇のどちらかで、落語は一切ありませんでした。ラジオやテレビでなんとなく見たり聞いたりしても、生で落語に触れる機会がなかったです。  

世の中は、ビートたけし・とんねるず・おニャン子の全盛期ですから。友人に落語好きなんか誰一 人いませんでした。それでもなぜだかコント赤信号の渡辺さんや三宅裕二さんが明治大の落研の先輩後輩だとか、昇太師匠は静岡で番組をやっていましたからさりげなく見ていると東海大の落研だったとか。 

気になる方々がみんな落研出身なのだという情報が勝手に入ってくるのです。勝手に入ってくると いうか、その情報を欲しがっていたのでしょうね。 

生で落語に触れる機会はなくても、常に気になっていたわけです。

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気になりつつもラジオ沼は変わらず。番組にはがきを書いてみたり、グッズに応募してみたり。そんな生活がはじまります。

はがきを読まれるには全国ネットの番組は競争率も高いですから、地元のラジオ番組にはがきを書いて読まれる喜びを知ってしまう。そんな時期だったような気がします。 

中学高校とそんなことばかりしていたら、いいこともあるもので。

大学の時、地元のFM局  K―mix で当時学生が担当していた『カレッジビー』という深夜番組に定期的に出させていただくことになり、今思えばいい経験をさせていただきました。

当時担当デレクタ―だった久保田さんは まだ元気なのでしょうかね?ふと思い出してしまいました。また呼んでください!

中学生の頃を振り返ると、この頃がもしかして落語家になるきっかけに出会ってしまったのかなと思 います。でもまだ生で落語に触れていませんけどね。 

そんなこんなで中二病はまだまだ続くわけですが、今回のコラムはここまで。

次回は、中二病事件簿にしようかな? (未定)