42歳の若さで急逝された林家市楼師匠。元上方講談師の寄席つむぎ代表・ふじかわ陽子とは同期入門であり、芸人時代から現在に至るまで長年親しくさせていただきました。しかし、令和2年12月に大喧嘩をし、仲直りしないままの永訣。気持ちの置き所が分からないため、思い出話をさせてください。
なお、この記事では林家市楼師匠を友人として描きたいため、敬称を「くん」とさせていただきます。他、登場する芸人さんたちも、ふじかわ陽子が普段使用している敬称にさせてください。
観客は小学生
平成13年は入門者が多く、講談は私を含め3人で落語は5人いる。その中でも私が親しく付き合っていたのは、市楼くんだけだ。師匠同士が親しかったこともあり、よく楽屋で顔を合わせた。同期というのは出番が被ることが少ないので中々親しくなりにくいのだが、ある種「奇跡的」なめぐりあわせだろう。
自宅が比較的近かったことも影響している。私は平成15年7月から鶴橋に住まいを構え、市楼くんは当時今里に住んでいた。一駅分しか離れていないため、気軽に自転車で行き来が出来る。ことあるごとに鶴橋駅前にあった「百番」という居酒屋で、ダラダラと酒を飲む。ボトルキープのつもりで入れた焼酎を一晩で飲んでしまうこともしばしば。
そのうち一緒に仕事をすることも増えた。私の母が高槻市で学習塾を経営しており、その宣伝のため小学生向けの演芸会「お話会」を開催してくれるようになったからだ。ただ、私だけが出番だと間が持たない。そこで母が指名したのは市楼くんだった。理由は、私が親しくしているのと、何か知らんけど可愛いから。
母は元国語教師で、ヤンキー全盛期の昭和40年代後半から50年代前半にかけて広島県の工業高校で教鞭をとっていた。そのせいか、ヤンキーには親しみを抱いている。彼女にとって市楼くんは、可愛くて仕方がない生徒に見えたのだろう。市楼くんもまた、母を慕ってくれていた。滅多に教師から褒められたことがない彼にとって、唯一自分を認めてくれた先生として。
お話会では分かりやすいネタ2席と手遊びやクイズ、高座体験を行った。とても好評で、高槻市津之江町で開催していたものは4年続いた。母の知り合いの学習塾経営者や自治体からもお声掛けいただき、二人で近畿一円の小学生を笑かしまくる。笑顔にした小学生は4年間で延べ2000人超。
小学生を笑かしまくって得たお金で、太陽が高い時間から「打ち上げ」と称して酒を飲む。1度だけ贅沢をして、西武高槻にあった天婦羅屋で打ち上げをしたことがある。贅沢といってもお昼の定食だが。まあ何にせよ天婦羅は美味い。
いつだったか、こんなこともあった。体格の良い私たちに小学生が「デブ1号と2号」というあだ名をつけたのだ。ちなみに、1号は私で2号が市楼くんだ。市楼くんは立腹し小学生に詰め寄った。
「オレをデブ1号にしろや!」
そこかよ。
つづく