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17世紀の京都を描いた屏風が誓願寺に!2月25日は四百年前の落語を聞く会へ是非

イベント情報

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2月25日(日)に京都の誓願寺で開催される「四百年前の落語を聞く会」に、スペシャルゲスト(?)が登場します!

そのゲストとは17世紀に描かれた『誓願寺門前図屛風』の複製です。立命館大学アート・リサーチセンターのご協力により実現しました。

▽立命館大学アート・リサーチセンター
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/index-jp.html

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複製といえど

オリジナルは京都府京都文化博物館に所蔵されており、今回展示するのは複製です。複製といっても侮るなかれ。高性能レンズで撮影され、画素数は驚きの約7億画素!iPhoneのカメラの画素数が、高性能なものでも約1200万画素ですので、どれだけ精密な画像かお分かりいただけるでしょう。

▽こちらから閲覧できます(立命館大学アート・リサーチセンター 高精密画像閲覧システム)▽
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/image/UPB/geo/panojs/seiganji0508.html

立命館大学アート・リサーチセンターはデジタルミュージアムの研究を行っており、『誓願寺門前図屛風』の複製は、2014年頃の京都府京都文化博物館との共同研究。文化財を現代の科学の力でインターネットを通じ世界中から閲覧が可能に。
その後、京都府京都文化博物館は、2015-2020年にかけて誓願寺門前図屏風の修理を行いました(https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/)。

もっと研究が進むと、モニター越しに閲覧するだけでなくホログラムで立体的にも見れるようになるかもしれませんね。夢が広がる研究です。

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『誓願寺門前図屛風』を描いたのは誰?

さて、この『誓願寺門前図屛風』を描いた人物とは誰なのでしょうか。それは、岩佐又兵衛です。江戸時代初期の大和絵絵師で、生まれは摂津国河辺郡伊丹とのこと。現在の兵庫県伊丹市にあたります。

父親は戦国武将の荒木村重。又兵衛が生まれたころは織田信長の家臣で、有岡城(≒伊丹城)の城主でした。ところが、又兵衛が2歳のころ、父親が織田信長に対し謀反。しかし、あえなく失敗に終わり、荒木家の人間はことごとく惨殺されます。幼い又兵衛の命も風前の灯火かと思わましたが、寸でのところで乳母に助けられ京都へ。

京都に逃れた又兵衛は、母方の姓である「岩佐」を名乗るようになります。浄土真宗のお寺に預けられたらしく、文化的な環境で育ちました。8歳のころには、豊臣秀吉が開催した北野大茶湯にも参加。成人後は、信長の息子・織田信雄(信勝)に仕え、絵画や詩歌をもって主君を楽しませていたよう。

とはいえ、アーティスト気質の人物が長く同じ場所に留まっているわけがありません。京都の中でも様々な場所に出入りし、パトロンもいたとか。『誓願寺門前図屛風』が描かれたのは何年かはっきりしませんが、恐らく京都で活躍していた20歳から38歳の間の若いころの作品でしょう。

38歳の時には、福井の興正寺の住職に招かれ、福井へ移住。福井は随分と居心地が良かったらしく、約20年この地で過ごします。その後は徳川家光の招きで江戸に居を移し、様々な絵画を手掛けました。約10年、精力的に活動したものの、しのびよる老いには勝てず72歳で眠りにつきます。

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賑やかな声まで聞こえてくるような作品

波乱万丈な生涯を送った岩佐又兵衛が描く『誓願寺門前図屛風』は、賑やかな声まで聞こえるかのような生き生きとした作品です。三条通は昔も数多くの商店が立ち並び、交通事故まで起きるほどの賑わいぶり。子供が母親のお店の手伝いをしている様子も描かれていますね。

もしかすると、同時代に活躍した安楽庵策伝上人も同じ風景を見たかもしれませんね。ちょうど、策伝上人が誓願寺の住職を勤めていたころの作品ですので。

策伝上人の目に映ったであろう景色、この景色の中から今に伝わる落語が誕生したと思うと感慨深いものがあります。ぜひ、一緒に『誓願寺門前図屛風』を堪能しましょう。

2月25日、誓願寺でお待ちしています。

受付は新京極通商店街沿いの本堂ではなく、裏寺町通の寺務所になります。ご注意ください。