グループ寄席あつめをご存知でしょうか?昨年亡くなられた四代目旭堂南陵先生が設立され、各地に地域寄席が設立されるきっかけともなった集まりです。笑福亭仁嬌師匠もメンバーで、各地の地域寄席にご出演なさったのだそう。
その時の想い出を、笑福亭仁嬌師匠につづっていただきました。じっくりお読みください。
グループ寄席あつめやあ
わたいら仁鶴一門同期三人(仁勇、仁嬌,仁幹)は昭和55年5月に師匠笑福亭仁鶴から年季明けを許されたが師匠に付く弟子がいなかったので暫く三日に一度ずつ付くことになった。完全ではないが一応年季明けである。
この頃は所属先吉本からの仕事はほとんどなく先輩師匠方から頂く落語会や地域寄席の出番が誠に有り難かった。
兄弟子である仁福兄からもよく出番を頂き地域寄席に出してもらっていた。当時グループ寄席あつめという若手噺家講釈師のグループがあった。仁福兄はそのメンバーでありお誘いを受けわたいも寄席あつめに入れていただいた。わたいが入った頃のメンバーは講談の
旭堂 南右 (小南陵⇒四代目南陵)
旭堂 南学 (南左衛門)
旭堂 南光 (南鱗)
落語家は
桂 文太
桂 文福
桂 文喬
桂 米八
桂 枝女太
笑福亭 仁福
の各師であつた。
元々若手の講釈師や噺家が個人的に勉強会や地域寄席をやっていたが自分一人では会は出来ない。誰かに出演をお願いすることになる。そうなると出演料を支払うことになる。さあそのお金がないというか儲からない会が多いのである。
そこでお互いにノーギャラで出演しようではなか。そうすれば舞台の回数は増えるしお互いに助かるというのが寄席集めを作った時の基本的な考えのようである。
今のように繁昌亭もないし寄席あつめに入れて頂いて落語ができる機会が増えるのは嬉しい限りであった。
メンバーそれぞれが地域寄席を担当していた。当然ノーギャラの寄席もあったが出演料を頂ける会もあった。出演料と言っても交通費くらいだが有り難かった。なんせ必ず反省会と称した打ち上げがありお腹いっぱい食べさせてもらえた。
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兄弟子仁福が責任者の大念仏寺寄席という地域寄席があった。わたいも何回も出してもらった寄席であるが開催日の開演時間になってもお客さんが一人もお越しにならない。暫く待ってもやはり誰も来ない。出演者は全員来ている。
「主演者5人お客さん0人 5対0でわしらの勝ちや」
てなこと言うてる場合やない。おかしいなあ、けどしゃーない今日はもう飲んで帰ろかーと一杯飲んで仁福兄が家に帰ると大念仏寺寄席の案内ハガキが机の上に山積みにされていた。当時は今のようにメールやSNSは無くお知らせはハガキだけの時代であった。
田辺寄席と堺おたび寄席が同じ日ほぼ同時刻にあり両方から出番を頂いた仁嬌は、田辺寄席が終わると電車で堺駅まで行きそこからタクシーを飛ばし堺の御旅所まで急いで行った。先に着いていた二人の先輩に「仁嬌お前タクシーで来たんか、あほちゃうか」と愛情たっぷりの突っ込みをいただいた。
当時は田辺寄席もおたび寄席も出演料無しの会であった。金銭的にはマイナスでも、このことはしばらく話題となったのでわたいにとってはプラスとなった。