落語は伝統芸能。弟子は師匠から様々なことを教えてもらい、芸を引き継いでいきます。引き継ぐのは芸だけではありません。熱い「志」も引き継ぐのが、伝統芸能・落語ではないでしょうか。
今回は六代目笑福亭松鶴師匠から鶴光師匠に伝えられた「志」についてのお話です。島之内寄席から始まった六代目笑福亭松鶴師匠の熱い「志」は何だったのでしょうか。
泣いて笑って、明日への希望になる鶴光師匠のコラム、今回も必読です。
島之内寄席
「大阪から上方落語の灯を消したらいかん」
これが父から子へ五代目から六代目に残した遺言でした。
五代目松鶴と言う人は亡くなる間際まで、天王寺参りをしゃべって息子に伝えようとしたらしい。
最後に脱脂綿のお酒をしたし、唇を撫でてやると顔に赤みがさしてそのまま旅立ったそうです。
落語家で食えない芸人が漫才にドンドン転向した時代。
「くやしかったら、落語で客入れて見なはれ。」
この漫才師の一言で松鶴は会長になった途端に、落語の定席島の内寄席をこしらえました。
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1972年2月21日がスタート、消防法の関係で毎日の興行は無理やったそうですが、待ちに待った落語ファンが押し寄せて毎日満員になりました。
しかも上方落語協会会長が自ら下足番をする。
頭が回らにゃ尾が回らん。
それに倣って米朝、春団治、小文枝(後の文枝)四天王がお出迎えやなんて何と贅沢な事か。
もうそれでけでお客様は大満足。
お客様には全員でお見送り。
寄席が終演した後、弟子にお酒買いにやらせて私を始め若手一人一人に注いで回って
「やっとここまで来れた。今はまだこんな状況やけど、お前らの時代には必ず365日出来る落語の寄席をこしらえてくれ。」
と涙ながらに話してくれたのが未だに脳裏に焼き付いております。
この努力が実って天満の繁昌亭がお客様方の寄付によって出来上がりました。
何と一億円以上のお金が集まりました。まさに大阪の人間が結集してできた府民市民の寄席です。
私も東京の団体に寄付を頼みましたら、快く応じて下さいました。私はこの繁昌亭に出る時必ず形見の羽織の紐をつけて
「師匠ここが天満の繁昌亭でっせ、365日出来る落語の定席でっせ。おやっさん、やっと夢が実現しましたな。良かったでんな。」
と心の中で囁きながら高座を務めさせて頂いております。
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島之内寄席の功績により、うちの師匠は上方落語家初の紫綬褒章と言う立派な賞を頂くことに成りました。
そのパーティでテレビのインタビューに答えました。
「師匠この度はお目でとう御座います、健康の秘訣は?」
「はい きん〇まの裏にピップエレキバン貼ってまんね」
後日その会社から段ボール箱に入ったエレキバンが一杯詰まってまして、メモ用紙にこう書かれてました。
【そういう使い方は間違ってます。肩か腰にご使用ください】