えっちゃん師匠と聞いてピンとくる方は、自慢できる上方落語通。「えっちゃん師匠」こと桂米之助師匠が作った寄席が、岩田寄席です。地域寄席のはしりといえる寄席でした。
この岩田寄席での思い出を桂春若師匠につづっていただきました。さてさて、どんな思い出が飛び出すでしょうか?番組も今見るととても豪華です。お楽しみください。
落語集団・岩田寄席その1
私が落語家に成ったのが昭和45年、大阪万博の年です。同期入門者は10人いました。
まず、六代目松鶴師匠門下に鶴司、朝一、松葉。
米朝師匠の処に米太郎、米輔。
小米(のちの枝雀)師匠門下にべかこ(現:南光師)。
松之助師匠の処に順之助、昭之助。
そして、春団治の家に春若、春雨です。
ところが、内5人は廃めてしまいます。
残ったのは、べかこ・米太郎・米輔・松葉・春若。この5人で昭和47年、東大阪で「岩田寄席」が始まります。
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キッカケはべかこさんが桂米之助師匠(米朝師匠の兄弟弟子)にお稽古をつけてもらっている時に
「べかちゃん、落語喋るとこあんのか?」
「島之内も出来ましたけど、そない出番もありませんし、あんまり……」
「そーか、ほな、家の近所に落語道場を造ろう」と。
ご近所の「菱屋東中地区会館」と云うライオンズクラブの事務所の2階に寄席を造って頂きました。
第1回目が昭和47年8月12日7時開演。毎月第2土曜日の公演です。
後にこの「岩田寄席」は地域寄席の草分けと呼ばれるように成ります。
記念すべき第1回は、当時の上方落語協会会長・笑福亭松鶴師匠もかけつけてくださり、
「悦ちゃん(米之助師匠の本名・矢倉悦夫)がええ寄席作ってくれた。けど、入り口が暗うて分かりにくいで」と仰いました。
表には桂文福さん手作りの当日の出演者とイラストの看板がかかっていました。
50人も入れば満員の会場に、なんと85人のお客様。8月の暑い日、クーラーも何もありません。窓も開けっぱなし。若手の汗だくの熱演に、表までお客さんの笑い声が響いています。
当日の番組です。
東の旅 桂べかこ
道具屋 桂米輔
寄合酒 桂春若
宿屋町 桂音也
江戸荒物 笑福亭松葉
崇徳院 桂米蔵
くっしゃみ講釈 桂米之助
後日、私がアベノ体育館でボクシングの試合を観てますと、お呼び出しのアナウンス。誰にもボクシングに行くと云ってないのに、と思いながら入口へ。
とそこに松ちゃん(笑福亭松葉)が待っていました。
「おやっさんが≪提灯作ったさかい、取って来い≫云われてん。一緒に行てもらおと思て」
松鶴師匠が提灯を寄贈してくれはったんです。
我々「花の45年組」(自分らで云ってました)が、いかに期待されていたかわかるでしょ?
2回目が92名、3回目が81名、順調に船出しました。
この「岩田寄席」にも楽しみがありました。