思い描いたプロの稽古と違った。桂枝女太師匠は五代目桂文枝師匠からの稽古に肩透かし。これが正解なのか思い悩みます。そして、入門当時の自身の師匠の年齢もキャリアも越した現在、枝女太師匠なりの答えを迷いながら出します。
今回は稽古について枝女太師匠の現在の考え方についてつづっていただきました。芸人のみならず、人前でパフォーマンスする人にとって参考になるでしょう。お楽しみください。
稽古その3
いまこの歳になって、私が入門したときの師匠の年齢やキャリアを上回って言えることは「人の稽古ほど面倒臭いものはない」ということ。
誤解がないように言っておくが、だから人に稽古をつけるのが嫌いと言っているわけではない。さっきも言ったように頼られるということは嬉しいことだし、人に稽古をつけるということは自分自身の勉強にもなる。
稽古をつけている相手からどんな質問がくるかわからいから、そのネタに関しては相当勉強しておかなければならない。技量的なことだけではなくそのネタに登場するあらゆる文物について理解、また歴史的背景なども含めてだ。
そういう意味では人に稽古をつけるということは自分自身がものすごく成長することにななる。
でも・・・しかし・・・面倒臭い、邪魔くさい。
師匠もそうだったように思える。知らんけど。
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落語のネタも色々あって、きっちり稽古をつけてらった方がいいネタと、自分で勝手にというのは語弊があるが、とくに誰かに稽古をつけてもらわなくてもできるネタがある。
ところがこれは人による。誰でも彼でも簡単なネタなら自分でできるというものでもなければ、誰でも彼でも難しいネタは必ず誰かに教えてもらわなければできないというものでもない。本当に人それぞれなのだ。
若い頃にしっかりと教えてもらったネタは何年たっても忘れないとよく言うが、そんなことはない。長いことやっていなければ忘れる。ただ言い回しなどは妙に体に染み付いているというか頭ではなく体が(噺家の場合は口が)覚えているというか、思い出すための稽古が楽なことはある。
逆に最近覚えたネタは半年もやらなければ本当にすっかり忘れている。
やったことすら忘れている。
ネタをつけてもらおうがもらおまいが、若い頃に覚えたことは忘れにくいということかも知れない。
最近楽屋でよく感じるのが、落語は誰かに教えてもらって初めて舞台にかけてもいいという空気だ。
私はプロの噺家ならば、人に教えてもらわなくても聞き覚えでも、自分の感性でしっかりと人前で演じられるスキルがないとやっていけないと思っている。
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本来「芸」とは教えてもらうものではなく盗むものだ、これは昔から芸界では言われ続けている言葉。
もちろん創作落語の場合は別で、作った人がはっきりとわかっている場合はその人に教えてもらうか、少なくとも許可をもらって演じるべきだとは思うが、いわゆる古典落語は落語家全員の共有する財産だ。その財産を自分なりに工夫して大きなものにしていく、それがプロの仕事。
私自身そういう気概でやってきたつもり・・・つもり・・・だが、これね、言うは易しでなかなか難しいんです。せっかくの財産を食いつぶしてしまう、なんてこともよくある話しで。
素人でそこそこやってきたつもりだったが、プロの世界は甘くなかった。
財産を食いつぶしたかどうかは別として、次回は初舞台の話しと、舞台に上がるのが怖くなった話、そして真剣に廃業を考え、またその気持ちを翻させてくれたオチケン時代の先輩の一言、などを紹介します。