桂米之助師匠の発案により始まった「岩田寄席」。若手の勉強の場としてスタートし、順調に回を重ねていきます。ところが、落語ブーム到来により徐々に花の45年組が揃わなくなるように。そして……。
遠くなった日々に思いを馳せ、未来を考えてみませんか。桂春若師匠による思い出コラム、お楽しみください!
岩田寄席その3
打ち上げ会場は米之助師匠のお宅です。
玄関を入ると台所。そこに料理好きの師匠と奥様、お嬢さんの手作り料理がテーブルに一杯。ギッシリ並んでいます。
この手料理をなんと20年もの間、造っていただきました。只々感謝するばかりです。
この料理を肴に奥の部屋でお酒をいただいて、お喋りするのが何よりの”楽しみ”でした。
当日の落語の反省会などはほとんどやらず、もっぱら楽屋咄。今日の出来事に、他人の悪口(これが一番盛り上がります)。
師匠は「酒飲みと云うのはご飯を肴にしても飲めないとアカンねや」
とよく季節のご飯を作っていただきました。
毎年5月は豆ご飯、かやく御飯にバラ寿司、生節ご飯に牡蠣飯、鯖寿司に松茸ご飯(これはなかったです)。
三代目旭堂南陵先生には「オムライスで飲む方法」を教わりました。
打ち上げでのワイワイガヤガヤは、近鉄電車の最終時間まで続きます。
この岩田寄席のおかげで我々花の45年入門組は回りから”仲の良い同期”と云われました。
「お前ら同期で何でそない仲ええねん、おかしいやろ」
と仲の悪い同期の先輩に言われたこともあります。
折からの落語ブームもあり岩田寄席の連中にも少しづつ仕事が入ってくるようになりました。
特にべかこさん(南光師)は土曜の夜にテレビのレギュラー番組が出来、マスコミでも活躍するように成り、我々5人があまり揃わなくなりました。
下のプログラムは5人がそろった最後の例会、昭和57年5月の番組です。
ところが、この年の8月にターやんこと桂米太郎さんが故郷の広島で亡くなります。32才でした。
陽気で明るく、誰にも好かれたターやん。
高校野球の開会式を観て泣くという、涙もろく人情味のある男でした。
べかこ、米太郎、春若の3人は天下茶屋のアパートで近所に住んでいました。
べかこさんは前述の通りで忙しくなっていました。
暇な二人は昼はパチンコ、夜は26号線沿いの安い居酒屋。
ある時二人で飲んでいると
「若ちゃん飛田へ行けへん?」
「俺、風呂ある方がええねん」
「ほな福原へ・・・」
天下茶屋から福原まで行ったこともあります。
内弟子時分にも、仕事終わりに真っすぐ武庫之荘(米朝師匠のお宅)に帰らず神戸まで行ってたようです。
「ちゃーちゃん(米朝師匠のこと)が、”お前は人間がええ。落語家は最後はやっぱり人間性や”って云うてくれはったんや。オレ、頑張る。ええ落語家に成りたい・・・。」
故郷の広島でのラジオ番組。
2人目の子供明日香ちゃんが出来て張り切っていた桂米太郎。
ええ男でした。
昭和57年8月、夏のお話です。