東京で活動を始められた笑福亭鶴光師匠は、苦労の連続です。大阪とは一味違った東京の楽屋の雰囲気に複雑な人間関係。またご自身を「あさましい」と感じられた瞬間もあったのだそう。それをどう乗り越えられてこられたのでしょうか。
演芸に限らず新しい世界に飛び込んだ人には大いに参考になるエピソードです。悩んでいる方におススメします。お楽しみください!
芸協の看板
新宿末廣亭10日間高座を務めると、千秋楽の日に来月も出てくれないかと席亭からの要望、トントン拍子で毎月出れるようになりました。
その内に浅草演芸ホール、池袋演芸場も。
その時に松鶴の親友の三笑亭夢楽師匠が、
「あんまりトントン拍子に行くと皆に妬まれるから、出番は前の方に出て、先輩や仲間の代演も嫌がらずにドンドン行くように。大阪の実績は0と考えなさい」
さすが師匠の友達。こんな事誰が言うてくれますでしょうか。松鶴さまさま。おおきにおおきに。
でも後輩から嫌味を言われたり、上方やと馬鹿にされたり。その度に逆上して落語芸術協会に電話して
「こんな協会やめたるわい」
なんて怒鳴っていました。
すぐに対処してくれて、わたしをいじめた連中の先輩がこっぴどく叱りつけてくれたそうです。
その時の言葉が、
「この馬鹿、お前は松鶴師匠弟子をいじめると言う事は、わしの顔に泥塗るのが判らんのか?」
それからいじめが無くなり暫くの間、私のあだ名は瞬間湯沸かし器に替わりました。
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しばらくして、箱根の旅館で行われた落語芸術協会の親睦会初めて参加いたしました。普通に和気あいあいと飲食してると四代目三遊亭小円馬師匠が僕の席の隣へ来て
「おい鶴光、我慢しろよ。この席は噺家の末席やここから一歩ずつ上がって行けよ」
何で幹部はこんないい人ばかりやろ。よし恥かかせたらいかん、私より上座に座ってた後輩の噺家を連れて箱根の夜を大散財。
「鶴光師匠、御馳走さまでした」
ええ気分やったな。
しばらくしてカードの請求書見て青ざめたがな。あいつら遠慮もなしに、よう飲み食いしやがったな。ええ恰好はほどほどに。
小円馬師匠には正月に家に呼んでいただいたり、又奥様の経営なさってるカラオケバーにも連れて行っていただき一緒に唄いました。
師匠の得意な歌は『浪速しぐれ』です。上方落語の爆笑王・初代桂春団治の唄でした。
一年間ラジオの番組の合間をぬって浅い出番と代演に明け暮れました。一年目にお席亭から、そろそろトリをとってみないかと打診されました。
この時やこれを待ってたんや、今までの苦労が報われる。
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席亭の条件は、上方落語らしい物を毎日ネタを変える事。
10日間末広亭のトリを務めると、次は池袋演芸場、浅草演芸ホールと次々と声がかかる。やはり新宿末広亭のトリはそれだけ値打ちがあるのやな。
でも香盤(落語家内部の序列)は二つ目の筆頭。
飲んでる席で後輩に愚痴をこぼしたら
「でも師匠は芸協の看板ですから」
と慰めてくれました。
この言葉に、ニコッとほほ笑む浅ましい心の私が存在しました。
そのうちに、東京の弟子の里光が真打に昇進。さすが弟子より下は具合が悪いと判断したのか香盤を上げてくれました。
でも後輩より下の序列には不満がありましたが、郷に入れば郷にしたがえ。心の中ではあいつら序列は上かも判らんが俺は看板だ!と叫ぶ器の小さい自分が居りました。