寄席つむぎ開始初日からスタートした笑福亭鶴光師匠の思い出。今回が最終回です。37回にわたり、六代目笑福亭松鶴師匠との思い出を主につづっていただきました。
大切な師匠との別れの時、笑福亭鶴光師匠は何を感じたのでしょうか。大切な思い出です。じっくりお読みください。
最終章
「世間では米朝を持ち上げてるが、あいつとわしとではラベルが違う」
私はレベルやと思うたんですが、良きライバルやったんですな。
松鶴が亡くなる少し前、見舞いに来られた米朝師匠に
「あとはあんたに任すで」
と言うたそうです。やはり一番認めてた噺家やったんやな。
師匠松鶴が亡くなったのは1986年9月5日。
師匠の遺言は、米沢彦八の碑を建ててくれでした。それを弟子一同でお金を出し合い実現致しました。
この米沢彦八の碑があるのは、大阪市天王寺区の生玉神社です。
ここで毎年、上方落語協会の「彦八まつり」が開催されています。奇しくも、師匠の命日である9月5日前後の土日に行われることが多いですね。
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“煩悩を振り分け我も西の旅”
これが辞世の句でした。
私は臨終に間に合いました。最後は電気ショックを与えてましたが、ダメでした。
もう入院中は弟子と看護師との区別がつかず傍若無人。見舞いに行く度に「あんな我儘な患者初めてです」とよくぼやかれその都度謝りました。
もう弟子として謝るのは、慣れっこに成ってました。
他にも謝った思い出があります。
松鶴十三夜という十三日間毎日の独演会があったんです。スポンサーが白鶴酒造。
千秋楽の最後の高座、お得意の『三十石』をたっぷり。途中お酒が出てくる下りがあるので、スポンサーに気を使ってアドリブを入れた。
「やっぱり、酒は白鷹でんな」
ナナニ~白鶴やろ、社長も重役も来てるねんぞ~。お客様は大爆笑。その笑いを受けたと勘違いした上方落語協会の大御所、もう一押しする。
「皆さんお酒は白鷹でっしぇ」
阿保やがな。
私と後輩とで酒造メーカーの方々に平謝り。
「すんまへん、年取って少しボケが来てまんねん」
そこへ松鶴が顔出して
「すんまへん、つい口が滑って、いつも白鷹飲んでるもんですから」
もう一度押してどうするね。おやっさんそれは謝罪になってまへんでぇ~。
今はもう弟子として謝ることがありません。
上方落語家を3百人近くに増やしてくれた松鶴師匠 さようなら
天満の繁昌亭を楽しみにしていた松鶴師匠 さようなら
最後まで新築の家に住まなかった松鶴師匠 さようなら
酒飲みの割には酒が好きやなかった松鶴師匠 さようなら
自分で思うほど女性にもてなかった松鶴師匠 さようなら
僕のおやっさんさようなら
お葬式は東西の知人で一杯、出囃子の舟行きであの世へ旅立ちました。
今頃5代目さんと親子会、客席からこんな声が聞こえて来そうです。
「待ってました六代目!たっぷり!」
おやっさん、時間はたっぷりおまっせ。