落語ブームのころ、トップを走り続けていた笑福亭仁鶴師匠。その笑福亭仁鶴師匠に弟子入り志願をしたのが、高校生の岡塚少年。のちの笑福亭仁嬌師匠です。入門の際のエピソードはこちらから。
入門を許されると、いよいよ弟子修行が始まります。同期入門のお二方と一緒に楽しく過ごされていたそう。そして、ついに芸名をつけていただけることに。
笑福亭仁嬌師匠の若き日の思い出、お楽しみください!
芸名やあ
昭和52年4月1日に入門し、それから師匠仁鶴宅へ毎日通う事となった。わたいより少し早く入門していた山澤さん(仁勇)、わたいとまったく同じ日に入門した西川さん(仁幹)が同期で三人の修行時代が始まったのである。
当時京都に住んでいたわたいは師匠宅までバイクで通った。171号線を走り片道約1時間これが一番早く安い交通手段であった。
朝10時前に「おはようございます」と挨拶して門をくぐり身支度を整えての仕事午前中は掃除である。廊下を履いて拭いて庭の落ち葉を拾い犬の糞の始末をし車(当時はロールスロイスとフォルクスワーゲンカルマンギヤの2台)を水拭きしてタイヤも磨きガラスを拭き車内も細かく掃除する。これを3人の分業作業でやるのである。
昼は奥さんが作ら張ったご飯をテレビを見ながら奥さんと一緒に頂く、因みに一番最初に頂いたお昼ご飯はボンカレーであった。師匠がボンカレーのCMに出たはったのでボンカレーは段ボール箱にいっぱいあった。昼に見るテレビ番組はワイドショーで再現フイルムが人気であった。
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入門当初の昼からは奥さんに着物のたたみ方を教えてもらった。出来るだけ早くたたまなければならないので奥さんがストップウォッチを持ち三人が何秒でたためるか計っていた。そんな遊び感覚で楽しく教えていただいてたのである。
なんせ明るい性格の奥さんやった。
他の用事は買い物と犬の散歩で、時間があるとトランプをしたりジェスチャーゲームで遊んだ。
基本的に、修業期間中の約3年間休みは無しで無収入である。労働基準法違反かも知れないが、そんな事は考えもしなかった。そういう世界やと思っていた。
またそういう世界であった。アルバイトをしてもよかったがしなかった。実家から通っていたので食べることは家で食べ師匠とこで頂き充分であった。
誠に忙しい師匠であったが月に一度くらい稽古をつけていただいていた。
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入門から三カ月ほど経ったある日、稽古をするとのことで三人は浴衣に着替えて正座をし師匠を待つ。部屋へ入ってきた師匠は座布団に座り三枚の短冊を手にしていた。奥さんから今日芸名を師匠から告げると聞いていたので、短冊には我々の芸名が書いてあるんやなと思い、どんな芸名を頂けるのか楽しみであった。
さて師匠短冊を三枚トランプのように広げて一言おっしゃった。
「ジャンケンせえ」
三人は緊張の余り引きつりながら笑った。まず山澤さんに渡し、次にわたいが「ありがとうございます」と受け取り最後は西川さんであった。
師匠は一人ずつ指を差し「仁勇、仁嬌、仁幹」と確認するように言わはった。
仁嬌の第一印象は「ニキョウ?うわーなんちゅう芸名や、けったいな名前やなあ」と思った。
稽古が終わり奥さんから仁嬌の嬌は愛嬌の嬌やと聞き「ええ名前やなあ。最高の芸名や、俺にぴったりやなあ」と思った。
さあ芸名を頂いたし、頑張るぞーと決意を新たにした7月10日であった。