三遊亭遊喜師匠による青春グラフィティ、第10回の公開です!
静岡県立島田高校を卒業された三遊亭遊喜師匠は、東洋大学理工学部に進学をされます。ついに東海道島田宿からお江戸へ!と思いきや、大学の所在地は埼玉県。女学生がほとんど在籍しない学部なものの、様々なサークルに勧誘され三遊亭遊喜師匠が興味を持ったのは…?
1990年代後半の風景を思い出しながらお読みください。
いよいよ上京
少し間が空きましたが、ようやく上京編です。
夢と希望を膨らませ東洋大へ入学。
きらびやかな大学生活が待っていると勝手に妄想していたわけですが、工学部の校舎は都内でなく川越にあります。川越と言ってっもにぎやかな観光地の川越ではなく、住所は川越で最寄り駅は東武東上線鶴ヶ島駅です。陸上グランドや野球部専用グランド、ラグビーグランドなどが整備され、広大な敷地の中に隔離されているかのようなキャンパスでした。
当時は工学部だけのキャンパスでしたから、学生といえば95%が男子学生で地方から出てきた有象無象ばかり。男臭しかしないキャンパスで新入生はサークル勧誘されるわけです。他大学の女子学生を動員して、先輩方は上京したての新入生をあの手この手で勧誘。
しかし、まったく私には響かず、結局興味があった落語研究会に入部。実質3年生の先輩が二人しかいない落研へ。U原先輩とO石先輩と私の三人の落研がスタートします。
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まず言われたのが「落研だけど落語やらないからね」でした。
U先輩はビートたけしさんが大好きで、常にたけしさんの影響を受けまくってました。例えば、当時のTV番組 『北野ファンクラブ』で大きな判子で北野と押したようなTシャツを目にしたら、翌日には「U原Tシャツ」を作る。そして、これを毎日着るようにと手渡され、着ていないと滅茶苦茶機嫌が悪くなるのです。
他にもあんなことこんなことがありました。「今日の夜はカレーが食べたいから作っておけよ」と言われ家で作って待っていても来なかったり、「今日は花火をするから家で待ってろ」と言われ待っていると、アパートのドアの郵便受から花火を部屋に撃ち込まれたり。多分U原先輩はたけし軍団を作りたかったのだろうと理解し、そんな日々を楽しんでいました。
ただ、アパートの二階に大家さんが住んでいたため、いつも騒いで怒られていました。ついには、引っ越すことになりましたけど。
もう一人の先輩・O石先輩は物静かでした。たけしファンというより、とんねるず・ウッチャンナンチャン・ダウンタウンが好きで、O原先輩みたいに荒々しくありません。ぼそっと一言で笑いをとる先輩でした。
落語をやらないならコントや漫才をやるのかと思っていましたが、そんな兆しもありません。ただ毎日部室で会って、くだらない噺をするという日々を過ごしていました。
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ところが、落語をやらない落研でも地域の公民館から落語の依頼がくると、「公民館で寿司が出るから 落語覚えてこい」と指令されます。適当に覚えた落語を先輩の前で見せて、いつの時代から部室に置いてあるのかも分からないかび臭い着物を持ち出し公民館へ。
これが、おじいちゃんおばあちゃん達にうけるのですよ。終わってから公民館で寿司を食べさせてもらう。おじいちゃんおばあちゃんからしてみたら落語が面白いわけではなく、孫みたいな若い学生が何かやってるだけで喜んでくれていたのだろうと思います。
せっかく落語をやるのならちゃんと寄席に行ってみたいと思い、東京出身のO石先輩に末廣亭に連れて行ってもらいました。芸協や落協の違いも知らず行ったのがたまたま芸協の芝居で、米丸師匠が『空き缶の由来』をやっていました。色物さんではボンボンブラザーズが出ておられ、初見で衝撃を受けました。終演後、O石先輩とボンボンブラザーズについての話題で盛り上がったのを覚えています。
今まで知らなかった寄席という素晴らしい異空間を知ってしまったから、暇があれば寄席に行くようになりました。浅草演芸ホール、池袋演芸場、国立演芸場など。
TVで見かけた事のない芸人ばかり次から次に出てくるのですが、これがまたたまらなく魅力的で「生の落語ってやっぱりいいな、寄席芸人ってなんだか分からないけどかっこいいし面白いな」と感じるようになっていました。
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ただお金もないからなかなか寄席に行けない。バイトもしなきゃいけないし。色々バイトはやりましたよ。深夜のコンビニ、運送屋の仕分け、引っ越し、交通量調査、コンサート警備などなど。
深夜のコンビニは人間模様がみえて面白かったですね。そこの店は酒も煙草も売っているところで、いつも同じ時間に同じお酒を買って帰る人や、常連さんはタバコの銘柄までいやでも覚えちゃうぐらいみんなパターンが同じなの。雑誌の発売日には本が届く時間にコンビニで待ってたりする人や、おでんの時期はおでんの時期で手間が増えるから忙しくなるし、世の中色んな人がいるなと感じながらバイトをしていました。
交通量調査では一泊二日でそこそこ貰えるからって行ってみたら、バスに乗せられて山梨の身延線の単線の踏切に降ろされました。そこで朝から夕方まで調査する。ほとんど車も人も通らないところで、住民は踏切を使わず線路を直で渡っていたりしていたので、これはどのようにカウントしたらいいのだろうと考え込んでしまいました。
このバイトで、なにもしないことに耐える事をもしかして覚えたのかもしれませんね。
久しぶりのコラムでまとまりませんがまだまだ上京大学編は続きます。