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【雑感】吉原馬雀さん(元・三遊亭天歌)勝訴!そもそも師弟制度って何だ?:ふじかわ陽子

ふじかわ陽子

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2022年12月から始まった吉原馬雀さん(元・三遊亭天歌)が元師匠である四代目三遊亭圓歌師匠を訴えた裁判は、2024年1月26日に一審判決が下った。結果は、被告は原告に80万円の賠償金を支払え。原告である馬雀さんの勝訴だ。被告による反訴は全面棄却された。

馬雀さんのnote
司法記者クラブでの記者会見の様子

この結果を受け、私の脳裏には様々な思いが駆け巡った。なかなか文章にできないほど。

何はともあれ、馬雀さんの苦しみに、司法が理解を示してくれたことが嬉しい。弟子であろうと、何でも受け入れることはないと司法は判断した。

誤解されている方もおられるから、ここで改めて伝えたいことがある。それは、「賠償金がほしくて裁判を起こしたわけではない」ということだ。ハッキリ言って、労力に金額が見合わない。

「弟子なら何をされても受け入れるべきか否かを、司法に問う」

このために馬雀さんは裁判を起こしたのだ。ここは間違えないでほしい。

あと、暴力をもって指導とするのは、日本の伝統ではないことも知っていただきたい。大東亜戦争終結後、本格的に教育現場へ暴力が持ち込まれたのが始まりだと推察される。『体罰の社会史』という書籍に詳しく記されているので、興味のある方は手に取っていただきたい。

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話を馬雀さんの勝訴に戻す。判決のニュースが流れた後、ヤフーニュースのコメント欄やX(旧Twitter)で様々な意見を目にした。記事すら読まず、「覚悟して入門しただろう」「タダで教えてもらっているんだから、何でも受け入れるのが当然」とする人が思いの外多くて驚いた。

このように感じる方にこそ、一緒に考えてもらいたいことがある。それは「師弟制度とは何なのか」ということだ。

そもそも、師弟制度はどのように誕生したのだろうか。私は、神道が深く関係していると考える。神道において肉体は魂の入れ物に過ぎず、魂を分けることで永遠を手に入れられるとされる。どのようにして魂を分けるかというと、「言葉」だ。

分かりやすい例をあげると、記紀(古事記・日本書紀)に登場する武内宿禰(たけのうちのすくね)だ。誰やねんと思われる方もおられるだろうが、記紀によると300年生きたとされる人物。これだけ覚えてもらえれば、ここのトピックは分かる。

人間が300年も生きるだなんて、普通に考えれば無理なのだ。肉体は現代科学をもってしても、120年が限度といわれている。しかし、神道の考えだと可能になる。言葉を用い魂を分ける。これにより、300年の命を武内宿禰は手に入れたのだろう。

つまり、武内宿禰は複数人いたということだ。

この武内宿禰が登場する『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼(ひえだのあれ)も、同じく言葉により魂を受け継いだ者と推察ができる。というのも、彼の家は代々「記憶」を生業にしていた可能性が非常に高い。

現代人には分かりにくい職業だが、昔は今のように気軽に記録を残せなかったため、当世風にいうなら人間を「サーバー」にして記録を行っていた。父から息子へ口伝。これを文字にしたことが、当時としては画期的であったことは想像に難くない。

これは『古事記』だけでなく、今のところ偽書とされている『出雲口伝』や『竹内文書』も同じで。代々記憶を言葉で伝えていた。これが先祖の魂を永遠とする方法だったのだ。

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記憶を記録することで魂を残す考えは、日本人を記録魔とさせた。紙が普及してからは公文書だけでなく、個人の日記までも大切にする。先人の言葉、魂を受け取ることにより、自身の学びとした。何でも記録し分類まで行うから、外国では見られないほど日本の動植物には昔から名前のついているものが多い。

そんな中、誕生したのが師弟制度だと考察する。文字で記録しなかったのは、商売敵に分からないようにするためだろう。人間をサーバーにする古来の方法を取った。演芸だけでなく、工芸など職人の世界で今も残っている風習だ。

工芸といえば、私の記憶に強く刻まれている畳職人の言葉がある。私の元婚約者の親方で、私もたいそう可愛がってもらっていた。その親方の言葉とは、「弟子を取ってからが修行の本番だ」。親方は言った。

「今になって親方の言葉がすっくり腑に落ちるんだよ。ああ、こういう意味だったかってな。ちゃんと教えなきゃ、親方に面目が立たない」

弟子と向き合うことで自身の親方の教えを振り返り、背筋を伸ばし襟を正す。私はこれこそ師弟制度のあるべき姿だと感じた。人手不足だからといって誰彼構わず弟子にはせず、「この人ならば」と見込んだ人のみに、自身の親方の魂を分けた。

ただ残念なことに、昨今の畳需要の低下で、元婚約者の畳屋は開店休業せざるを得ない状況になっている。大口取引先である寺院が板の間を取り入れ始めたことにより、大きなダメージを受けた。時代の流れとはいえ、何ともいえない切ない気持ちとなる。

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さて、演芸界はどうだろうか。言葉をもって魂を分けることはされているだろうか。私が気になるのは、落語会など公演でお寺や神社を使わせていただく際、本堂や本殿を参拝する芸人が少ないことだ。私が知る限りでは、私以外いなかった。

もちろん、住職や宮司にはちゃんと挨拶はしている。しかし、お寺や神社の真の主である仏や神には見向きもしない。物言わぬ存在よりも目の前の人間というのは、効率面では当たり前だろう。でも、見えない存在を大切にしてこそ、師弟制度ではないだろうかと考える。魂を分けるのだから。

これは私のルーツに神社があるから、こう感じるのかもしれない。父方の祖母が神社の生まれだ。私は幼いころから神社の境内で遊んでいたし、祖母から目に見えないものの話も聞いていた。今も神社にお参りすると心が落ち着く。言葉により魂を分けるという考え方も、すっくり腑に落ちる。

まあ、「魂を分ける」だなんてオカルト的で気持ち悪いと感じる人も多いだろうが、「日本」の「伝統」を考えるなら神道は避けて通れない道だ。現代人は初詣と七五三ぐらいしか神道に触れる機会はなくなったが、自身のルーツとして今一度スポットを当ててみても良いのではないだろうか。

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馬雀さんは現在、落語協会にハラスメント対策の徹底を求めて署名を集めている。具体的には、専門家が常駐した相談窓口の設置だ。これは弟子が師匠を訴えやすくするためのものではない。師弟関係が訴訟に発展するまでこじれないよう、調整を行ってもらうためだ。

以前、馬雀さんと話した際、彼は言っていた。「師匠に殴らせたくない」と。「師匠に殴られたくない」ではなく「師匠に殴らせたくない」だ。この想いに共感したから、私は今も馬雀さんを応援する。

署名のご協力、よろしくお願いいたします。

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