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青森から仙台、山形へ~SFと童貞と落語:笑福亭羽光

笑福亭羽光
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昨年7月に青森県ツアーを行われた笑福亭羽光師匠。その時の様子はコチラからご覧ください。

その後、再び青森県を訪れることがあったようで、その時の様子を書いていただきました。さて、どんな出会いがあったのでしょうか。

笑福亭羽光師匠の感性が光る回です。じっくりお読みください。

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青森から仙台、山形へ

 2024年12月12日(木)、52歳の僕は、再び新青森駅に降り立った。前回青森に来た時はねぶた祭の直前、夏だった。県全体にあふれんばかりのパワーを感じた。今回は初の冬の青森である。街は灰色で暗さを感じる。車もスリップしないように車間距離をとって走っている。思った程寒くなかったが、雪が積もり、車に乗るときは、車上の雪を落としてから乗車しなくてはならなかった。


 つがる市にある神武食堂が創業100周年をむかえ、記念イベントとして噺家である僕をよんでくれたのだ。大雪の中、車で到着すると、会場である食堂には席が並べられていて、常連さんや落語ファン等30人位予約が入っているとのこと。民家と店がくっついている形式で、通された楽屋は、なんと家族が団らんする居間だった。体感温度以上の精神的な温かさを感じる。


 そしてそこには88歳のおばあちゃん(店長のお母さん)が居たのだ。

 楽屋に初対面のおばあちゃんが居て、ずっと僕の着替え中や待機中も座って会話している。
僕が関西出身だというと、70年前関西には修学旅行で訪れたことなどを懐かしそうに話してくれた。

 やはり旅での落語会は楽しい。こんな特殊な経験が出来るとは。普通楽屋に一般人が入ることはないのだが、今回は楽屋が住居の居間で、こちらが来訪者なのだから当然といえば当然である。

 そうこうしているうちにお客さんが集まり、出囃子が鳴った。初対面のおばあちゃんに深々と礼をして「お先に勉強させていただきます」と言い、高座にあがる。ネタは、『悲しみの歌』『俳優』中入り『私小説落語~青春編2』『まめだ』を口演した。


 終演後、店長が誕生日が近いということで、サプライズでケーキでお祝いし、打ち上げも参加した。地元の人たちと会話が盛り上がる。
 
 子供の頃、漠然と『男はつらいよ』の寅さんに憧れていた。貧乏でもあんな風に色んな所を旅して、そこで人と触れ合って笑わせて酒を飲んで暮らせたら幸せだろうな~と。人生は何があるかわからない。受験に失敗し、コント師と漫画原作者を挫折して、34歳の時に落語家になったが、まわりまわって幼少期に抱いていた夢がかなっているではないか。その夜僕は幸せをかみしめたのだった。

 翌日、早く新幹線に乗り、仙台に向かう。ねづっち、味千代さん、六華亭遊花さんと僕で高校の学校寄席。ワークショップで、蕎麦食べる仕草でも積極的に高座に上がってきてくれた。

 昼過ぎに、バスで山形に向かう。かつてコロナ過、オンラインで落語教室をやっていたことがあり、そこの生徒だった山形の社会人落語家こいのすけさんが、2人会を企画してくれたのだ。

 こいのすけさんは、僕の私小説落語を気に入ってくれて継承してくれている。私小説落語とは、実体験を元にして落語を作るのだ。彼は、幼少期。吃音があり、自分の辛かった体験を元に私小説落語を作り、吃音者団体向けに口演し、その活動が地元のNHKに取り上げられたそうだ。大変うれしい事である。

 私小説落語は、辛い体験や悲しい出来事を、俯瞰でみて、それを自分自身でネタにして浄化するという特徴がある。世の中には、毎日のように悲しい出来事が起こる。少しでも多くの人が私小説落語的思考法で、気持ちが楽になってくれることを願う。

 僕は『私小説落語~落語編』を口演した。


 翌日、朝早い新幹線で東京に向かった。

 青森の食堂で聴いてくれたお客さん、少しだが酒を酌み交わして喋った地元の方、仙台で僕の落語を聴いてくれた高校生、山形噺館のお客さん、10年後は僕のことを忘れているだろう。もしかしたら、関西弁の落語家がエロい事言ってたな~位は覚えていてくれるかもしれない。僕も10年後はこの旅の記憶があやふやになっているかもしれない。

 でも確実に、これは僕が生きて体験した出来事であり、心の(もしかしたら身体の)何処かに残っているに違いない。日常の普通の出来事が幸せだと感じれる真打になっていこうと思った。

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