上方落語協会広報誌『んなあほな』の3代目編集長・桂枝女太師匠のコラムが『寄席つむぎ』に登場です。
枝女太師匠は五代目桂文枝師匠の10番弟子で、関西大倉高等学校在学中に入門を許されました。以後、43年間真摯に落語と向かい続けます。そのひたむきな姿の原点は、師匠五代目桂文枝師匠にありました。
複雑な感情が入り混じる過ぎし日々。あなたも一緒に追体験してみてください。
1訃報
ポケットで携帯が鳴った。表示を見ると、弟弟子の桂坊枝からだった。
2005年3月12日、午前11時半を少し過ぎた頃。私は仕事のため茨城県鹿島市へ向かうバスに乗っていた。
嫌な予感がした。
その年の1月、一門の新年会で総領弟子の桂三枝(現六代文枝)から師匠が癌に侵され余命3ヶ月だと知らされた。
そんな・・・
具合が良くないことは皆知っていたが、まさか末期癌だとは。
バスの車中ではあるが躊躇いなく電話に出た。案の定、坊枝の声が震えていた。
「ついさっき、師匠が・・・」
そのあとは涙声になり、ほとんど聞き取れなかった。
「わかった、一門の皆には俺から連絡入れるから、孫弟子の方は頼む」
そう言って電話を切り、兄弟弟子に連絡を入れていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一門直系の弟子は20人。そのうち三枝、きん枝(現四代目小文枝)、文珍の3人にはすでに連絡をしたとのことなので、残るは坊枝と私をのぞいた15人。
これがなかなか大変な作業だった。なんせバスの中、大きな声は出せない。それに事務的にしようとしてもついつい長話しになってしまう。
そのうちバスは目的地に。バス停には担当者が迎えに来てくれている。会場入りし主催者の教育委員会の偉いさん方との挨拶などがありなかなか全員に連絡できない。
まさか「うちの師匠が亡くなりまして、その連絡入れますんでしばらくお待ちを」とも言えず、楽屋で一人になったときを見計らっての連絡。
とても人を笑わせる精神状態ではなかったが、そこは私もプロ。見事に舞台をこなし・・・といえば聞こえはいいが、この日の仕事が落語ではなく講演だったので少し助った。
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帰りの新幹線の中でも大変だった。
師匠の死は密葬がすむまで伏せておくというご家族の希望だったので誰も知らないはずなのだが、他の一門の落語家や講談師から「妙な噂を聞いたんやけど」という前置きで確認の電話がかっかてきた。
そこはなんとか誤魔化したが、マスコミに漏れたらと思い家に電話を入れ家内に
「もしマスコミから問合せの電話があっても知りませんと言うといてや。まだ公表でけへんから」。
すると家内が
「わかった、けどさっきNHKのニュースでやってたで。」
「・・・・・・」
現場にいる者や外へ出ている者はテレビなど見ていられない。知らぬは当事者ばかりなの状態だった。
次回予告
桂枝女太師匠の次回コラムは、6月12日20時公開を予定しています。五代目桂文枝師匠が極楽座に旅立った際、枝女太師匠が思い出したのは入門の時のこと。入門のいきさつは、まさかの…。お楽しみに。
桂枝女太師匠はFacebook(https://www.facebook.com/shimeta.katsura)も随時更新中。こちらも要チェックです。