笑福亭鶴光師匠の二番弟子で、東京にて活躍中の笑福亭里光師匠。師匠譲りの叙述的な落語も、笑福亭お家芸の爆笑ネタも幅広くこなす新進気鋭の落語家です。
この時点で「あれ?」と少し違和感を覚えられないでしょうか。「笑福亭なのに東京?」と。実は里光師匠、上方落語家で初めて東京の寄席修行をした落語家なのです。
なぜそういうことになったのか、その理由はじっくり本文をお読みくださいね。上方と江戸の大きな違いは、修業時代にありました。
東西の違い
こんにちは。笑福亭里光と申します。
僕は1998年に笑福亭鶴光に入門して以来、笑福亭という大阪の名前を名乗りながら東京の寄席を中心に活動してきました。
師匠である鶴光が、活動の拠点を東京に移してからの弟子だからです。
今は大阪にも寄席ができましたが、当時は毎日(ほぼ365日)演芸を見られる劇場である寄席は東京にしかなかった。
師匠は毎日喋りたい一心で(公益社団法人、当時は単に社団法人)落語芸術協会に入った訳です。
鶴光が東京の寄席に出るようになった経緯は本人の弁に譲りますが、ここでは大阪とは違う東京の寄席での修行の日々をご紹介しようと思います。
(といっても大阪で修行してないので、どう違うかは肌では分かっておりませんが)
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大阪と東京。まず大きく違うのが身分制度です。
大阪では師匠の元で修行が終われば「年季明け」といって独り立ちできる。後は本人次第というわけです。
東京は前座→二ツ目→真打ちというハッキリした身分制度がある。
もっとも東京も基本「前座」という修行期間が終われば後は本人次第ではあるのですが、二ツ目という何とも中途半端な「半人前」期間がある。
いま思えばこの二ツ目時代の過ごし方で次の真打ちでの価値が決まってくるのですが、修行から解放された喜びに浸り過ぎると・・ま、それは後回しにするとしましょう。
簡単にこの身分をご説明いたします。
前座というのは修行期間。師匠の保護を受けている状態です。寄席では一番最初に喋らせてもらう。
プログラムに書かれないことが多いです。それどころか開演時間の前。着物も着流しです。
落語を喋るのは二の次で、楽屋で先輩師匠方のお世話をするのが仕事なんです。
二ツ目になると羽織や袴の着用が許される。出番は前座の次。修行期間ではないので、自分の出番が終われば帰ってしまって構わない。これが一番嬉しいですね。
ただいつも帰ってしまって良い訳ではない。興行中に主任(いわゆるトリ、興行の最後を飾る真打ち)に挨拶しないといけないんです。
その師匠に番組(プログラムのこと)に顔付け(興行のメンバーに入れてもらうこと)してもらった可能性がありますからね。
お礼がてら挨拶するために、出番が終わっても残らなければならない。いつ残るか?自分の予定との絡みももちろんありますが、これセンスなんです。
いかに残ってますアピールができるか!?ここを読み違えると仲間内からの評判が悪くなる。
「ちょっと俺の独演会で喋ってよ」とか仕事に呼ばれなくなってしまうんです。
真打ちになると寄席でトリがとれる!弟子がとれる!!求められれば、ですが・・それから呼ばれる時の呼称が「師匠」になる。とまあこんな具合です。
まずは前座ですね。
普通は朝に師匠のお宅に伺いまして、掃除やら身の回りのお世話をして寄席に行く。寄席では出演する先輩方のお世話や興行の進行の管理をする。
寄席興行が終われば又師匠のお宅へ伺う。とまあこんな感じの一日でしょうか。
寄席の興行は昼の部と夜の部があるので、どちらに入るかによって師匠の家に行く時間も変わってくる。
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昔は内弟子といって師匠の家に住み込むのが当たり前だったので、この「師匠のお宅に伺う」という行為そのものが無かった。
今はもう内弟子はないでしょうね。住宅事情もありますし、第一奥様(おかみさん)が嫌がります。他人と住むわけですからね。
大阪では米朝師匠、東京では先代圓歌師匠が最後でしょうか。
たまに内弟子を試みる人もいますが、たいてい挫折する。師匠の方がね。
話を戻しますが、最近では師匠の家すら行かないことが増えています。
行くとしても何日に1回とか用がある時だけとか、大晦日と正月だけなんてことも。せめて盆と正月とか、間隔開ければ良いのに。
僕は師匠の家には行かなかった。行かなかったというより行けなかったんです。鶴光は「単身赴任」なので。しかもホテル住まい。掃除に行く必要もないですしね。
ですから、僕の前座修行は専ら寄席の楽屋でした。