昭和40年代の新世界は、今以上に労働者の町でした。客席も労働者がほとんどだったそうです。その新世界新花月で初高座をふんだ若き日の笑福亭鶴光師匠。その思い出を当時の大スターの思い出もまじえて、つづっていただいています。
六代目笑福亭松鶴師匠が怒らせてしまったのは、あの大スターだった?今回も必読です!お楽しみください。
人情
私が入門した時の大スターは三人姉妹のかしまし娘さん。
他にも漫才や音楽ショーが綺羅星のごとく。ダイマルラケット、いとしこいし、ラッパ日佐丸。
女性ではお浜小浜、音楽ショーでは宮川左近ショー、タイヘイトリオ。
フラワーショー他諸々その中でもかしまし娘さんは別格。正月、ゴールデンウイーク、お盆興行しか出ない。
松鶴は正月の一日から十日の初席の常連やったんですが、暮れに11PMと言う夜のお色気番組でかしまし娘さんの長女の事を面白おかしくいじったんですな。これに逆上したお姉さんの怒りにふれ、初席は春団治師匠に替えられた。
しかも松竹芸能からペナルティーとして、その年の初席は新世界新花月十日間公演に格下げ。
元旦と言うのは我々が師匠の所へ御年始に行って、お年玉をもらいお雑煮を食べてお酒を御馳走になる。もう朝から弟子全員が泥酔状態。
松鶴もへべれけで高座に上がった。マクラで羽子板娘と言うバレ噺(※艶笑噺)をやった。一目 二目 みやこし よめご の最後の部分「よめご」を「お〇こ」と叫んだ。
明くる日反省した松鶴が、
「昨日ここで卑猥な事を叫びまして、誠に申し訳おまへん、本間にそんな事言うたか覚えてないんです」
言うたらお客様が「言うた~俺きのう真ん前で聞いてたぁ言うたぁー」
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漫才は三番叟と言うのがあってその人たちは永久に前の方しか出れない芸人。ある客が「おもろない、ヤメヤメ金返せ」。言われた漫才師が「お客さん、私やからええけど、この後に出てくる芸人にそんな事言うもんやないで」と窘めると「この後へ出る芸人はお前より下手なやつはおらんわい」。
でも人情が有るなと思うたのは楽屋から出てくると、そこは通称ジャンジャン横丁と言うて立ち飲み屋さんが軒を並べてました。労働者の人が朝から飲んでる。
私を見つけた一人のおじさんが
「お~お前最初に出てた奴やな、まぁ一杯飲め、お前ら一級酒飲んだ事無いやろ」
「へえおまへんね」
その当時の日本酒は特級、一級、二級、今は大吟醸、吟醸 純米酒
「さぁ飲め、お前エビの天ぷら食うた事」
「いえおまへんね」
「さぁ食え、おいみんな、わしらも貧しいけど、まだ貧しい奴がおるねんぞ」
通り道で接待受けて横丁を出るときはぐでんぐでん、労働者の皆さま、あの時はお世話になりました。
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入り口に交番所がありまして誰かれ問わず職務質問をされまんね、漫才師の若井はんじ、けんじという二人が止められて
「君名前は」
「はんじとけんじです」
するとお巡りさんが
「お前わしをなめとるんか」
そんな思い出の詰まった新花月も無くなって大分経ちますが
その近くに友達の桂ざこばさんが動楽亭と言う落語専門の寄席をこしらえてくれました。