桂米左師匠による自身の師匠・三代目桂米朝師匠との思い出コラム第4弾です。いよいよ桂米左師匠が桂米朝師匠に入門志願をします。高校3年生の時のことでした。
同級生が就職に頭を悩ます中、紅顔の美少年(?)だった米左師匠は入門について思い悩みます。悩んだ末、選んだ方法とは?
甘酸っぱい青春を米左師匠と共に振り返る、ちょっぴり切ないコラムをお楽しみください。
入門まで
・・・と言いましても師匠米朝ではございません。私、桂米左の入門までです。
「そんなお前の話なんか聞きとうないぞっ!!」(ぼやき漫才の人生幸朗師匠風)てな事は仰らずお付き合いください。
小学生のころからテレビやラジオの演芸番組を見たり聞いたり、また高校生になると落語好きの友達とあちこちの落語会に行ったりしておりました。
当時は今程落語会の数はなく、受付をしている噺家さんに「また来よったコイツ!」と思われていたことでしょう・・・多分・・・いや絶対に!なんで?私やったらそう思うんで・・・
高校でも落語研究部に入り、自分でも演ったりしておりました。
今思えば何と大胆な無謀な、素人と言うのは斯くも怖いもの知らずかと反省しております。
そのまま落語熱は冷めず、噺家になりたいという思いがどんどん膨らみ、同級生達が就職活動で頭がいっぱいの時に噺家になれという悪魔の囁きに負け、どうしたら米朝の弟子になれるか考え始めました。
・・・あの時心の中の天使が悪魔に勝っていてくれれば、こんな悪の道に進まなくて良かったのに・・・
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落語会の出待ちと言う王道を取るか、色々と悩んだ挙句手紙を書くという斬新な方法を取りました・・・どこがや!
高校の時の先生が米団治兄(当時小米朝)と大学の同級生で、その御縁で師匠の住所を教えていただきました。
一生懸命、心を込めて手紙を書いて送ったら、なんと、なんとなんと!お返事を頂きました。それがこれです。
何書いてるか分らんかった葉書。この字に慣れるまで随分かかりました。
私の宝物です。
米団治兄が話をして下さってたみたいです。感謝感謝。
昭和59年1月末、師匠から本当に電話がありました。ビックリしました。受話器を持ったまま直立不動です。そらそうです。あの桂米朝から直接電話がかかってきたんですから。
当時、京橋のダイエーで上方落語協会主催の会があり、その二月席に出ているので私を訪ねてきなさい。という事でした。
受付で用件を伝えるとお聞き致しておりますと師匠に取り次いで頂き、そのまま喫茶店へ行き色々話をして下さった。
先ず食べていける保証はない。それどころか食べていけない。
売れるとは限らない。
世の中がアカンようになったら真っ先にダメになる商売等々。
それらを取って頂いたコーヒーを飲みながら聞かせていただいた。コーヒーの味なんぞ一つもしなかった。ただただ褐色の湯だった。
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それからしばらく後、また師匠から電話があった。
当時関西テレビで『おたのしみ米朝噺し』という昔の漫才さんとか、珍しい芸を紹介する番組を持ってはりまして、その収録があるので見に来なさい、勉強になるからとの事でした。
有難い事です。弟子に取るかどうか判らん奴に対してこんな事言うてくれはるやなんて。
収録後楽屋にご挨拶に伺うと、今度は親を連れてきなさいという事で弟子にしていただく事が決まりました。
顔は緊張、心はガッツポーズ!
そうそう、喫茶店で師匠に言って頂いた一番大事な事を忘れておりました。
師匠が入門する時に、自身の師匠である米団治師匠に言われた言葉です。
「芸人は米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒がええの悪いのと言うて好きな芸をやって一生を送るんやさかい、むさぼってはいかん。値打ちは世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に世間へお返しの道はない。また芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」