落語家は不安定な職業。先が見えない不安に押しつぶされそうになった、若き日の桂枝女太師匠は落研時代の先輩の一言で立ち直ります。そして、様々なものにチャレンジしていったのだそう。
今回は20歳ごろの桂枝女太師匠のチャレンジについてつづっていただきました。波に乗れる時は乗るものだそうです。お楽しみください!
光明
落研時代の先輩のひとことで落語家をやめることをやめた私だが、その後私の落語家生活の風向きがちょっと変わってきた。
所属する吉本興業から番組オーデションを受けてみたらという話しが舞い込んだ。朝日放送の「プラスα」という昼2時から3時までのワイドショーだ。月曜日から金曜日まで毎日、いわゆる帯番組だ。
といっても本編ではない。「プラスα最前線」という本編の宣伝番組。時間は1時57分から1時58分30秒までの1分30秒間の生番組だ。
オーデションは朝日放送のスタジオで行われた。参加したのは若手の噺家ばかり13名。その中で私は一番若かった。つまりまわりは先輩ばかり。選ばれる可能性は限りなく低い。
番組オーデションなんて生まれて初めての経験だし、なにをどうしたらいいかもわからない。
ドラマなどではこういう場合、所属プロダクションのマネージャーがそばに付いて色々とアドバイスをしてくれる、そういうシチュエーションだが、吉本興業はそんな甘い会社ではない。マネージャーは一人も来なかった。どないせぇっちゅうねん。
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どうせ合格の見込みがないのだから好きなようにやってやれ。喋りがヘタなのは仕方がないのだから、とにかくニコニコ笑って明るく明るく、それだけを考えて臨んだ。
そしたらなんと合格してしまった。嬉しかった。メッチャ嬉しかった。
でもどうする?
なにがって、まだ師匠のカバン持ちをしている身分。年季は明けていない。
月曜から金曜まで毎日昼前から番組が終わる3時、いや、ダメだしなんかもあるだろうから夕方までは師匠に付けない。
もちろんオーデション自体は師匠に許しをもらって参加したのだが、受かるとは思っていなかったし師匠もそうだろう。
恐る恐るという感じで師匠に報告した。
私の師匠、五代目桂文枝、当時は小文枝だったが、この師匠は年季中の弟子でも仕事があれば必ず行かせてくれる。仮にその日に師匠の仕事があったとしても行かせてくれる。
考えてみれば弟子が付いていようがいまいが、それこそ師匠に支障はないのだが。
別に無理に洒落を入れたわけではありません。成り行きでこうなっただけです。
このときも「よかったがな。なんでもやったらええねん」と機嫌よく・・・でもなかったがお許しが出た。
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この番組は2年近く続いたように記憶している。
毎日昼前に局に入り、当日の台本を渡される。もちろん本編の台本だ。私の番組用の台本などない。本編の台本を読んで、それをどう紹介したらいいかは自分で考える。1分30秒の間で本編の紹介を面白おかしくする。
普通はたとえ短い番組宣伝の番組でも放送作家がある程度書いてくれるものだと思うのだが、この番組にはそれがなかった。
自分でやれと。そのかわりどんなやり方でもいいと。それも生放送。
テレビに出るなんて落研時代に素人参加番組に何度か出たことがある程度。開き直ってやるしかなかった。
色々と失敗もあったが本当にいい経験になった。その後ラジオのレギュラーも決まり・・・ただ、師匠に付けるのは夜の仕事と土日だけになってしまった。そしていつの間にか年季が明けていた。