江戸で名人と謳われたのは、立川談志師匠と古今亭志ん朝師匠。六代目笑福亭松鶴師匠はこのお二方との親交が深かったとのこと。弟子の笑福亭鶴光師匠は、この3人の名人と同じ空間で過ごしたことがあるらしいんです。すごい。
今回は古今亭志ん朝師匠の思い出を中心に、笑福亭鶴光師匠に振り返っていただきました。名人たちの在りし日に想いを馳せつつ、お読みください。
この世の高座
立川談志師匠といえば、こんなことがありました。横浜の紅葉坂の会館でギリギリに入って来て、高座で漫談5分で降りてきた。
主催者が「看板ですから30分はやって頂かんと」クレームつけると夜の部55分やって「これで時間どおりやろ」と。
昼の部のお客様災難やがな。
それでも名人です。
よく言われていたのが、上手いのが志ん朝、達者なのが談志、面白いのが円鏡(後の円蔵)。この三つを備えた噺家は未だに存在しない。
志ん朝師匠は努力の人で、生前よくおっしゃってました。
「落語の師匠は松鶴で、芝居の師匠は三木のり平」
ものすごくネタを繰る人で、皮肉屋はこういう人の事をネタ繰り老人(寝たきり老人)と呼んでました。
志ん朝師匠の家にはマージャン部屋が有って、奥様が友達と麻雀やってる間二階でずぅ~っと何時間でも練習。稽古のし過ぎで、ふらふらになって二階から降りてくる。完璧主義やからね。
内の師匠から習った『蔵丁稚(四段目)』の歌舞伎の仕草から細部に至るまで見事に演じてらっしゃいました。もう少し長生きしたら間違いなく人間国宝やったな。
亡くなった後お姉さんにインタビューしたら「私の命を削ってでもあの子には長生きして欲しかった」と涙ぐんでらっしゃいました。
芸もみんなあの世へ持って行くねんもんな。惜しい、悔しい。
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ある時、静岡県の焼津市民会館へ志ん朝こん平二人会に呼んでもらいました。タクシーにこん平師匠に同乗させてもらうとドライバーの方が
「いつもテレビで見てます」
「有難う」
「失礼ですがお名前は?」
むっとしたこん平師匠
「三船敏郎です」意味がわからん。
客席は超満員、楽屋で志ん朝師匠は楽屋にこもって本日やる落語を繰り返し練習してる。
さて本番、『小言幸兵衛』を実に見事に演じ抜き大喝采。それなのに、中々緞帳が降りてこない。師匠のいら立ちが判ったので、私が関係者に指示を出すと幕がす~っと降りてきた。
関係者が「お疲れさまでした」声を掛けると、古今亭の師匠が
「もう少し早く緞帳を降ろしてもらわなきゃタイミングが狂うよ」
「すいません、聞き惚れてたものですから」
うまいなぁこのフオロー。
志ん朝師匠思わずにっこりして、「みんな打ち上げは豪勢に行こうぜ」。
師匠のおごりで高級な焼肉屋さんへ。その場でこん平師匠が
「いやぁ名人と言われた兄貴と同じ時代に生きて同じ空気を吸えて俺は幸せだ」
とヨイショが始まり、奥さんが
「私、今日忙しかったからすっぴんなの」
「え~素顔でその美貌」
こん平ヨイショ第二弾。とどめが
「私、昨日ゴルフに行ったの。でも、失敗続き中々まとまらなかったの」
とぼやく奥様に
「いいじゃないですか?顔がまとまってるんですから」
いよ~ヨイショの達人。
今身体が御不自由な林家こん平師匠、早く元気になってヨイショが聞きたい。
談志75歳、志ん朝63歳、そして松鶴は68歳。今の高齢化社会だと、まだまだこれから。
みんなこの世の高座から降りるのは早すぎるんと違いまっか?