昭和45年入門の落語家「花の45年組」が活躍できる場を。その思いで東大阪市菱屋東で開催されていた「岩田寄席」。主宰は人間国宝・桂米朝師匠の兄弟弟子である桂米之助師匠でした。
桂米之助師匠は上方落語の種を各地に撒いていかれた、陰の立役者。その桂米之助師匠にスポットが当たる出来事があったそう。そちらについて桂春若師匠に振り返っていただきました。とても大きな功績もあったようですよ。桂春若師匠の思い出、一緒に感じてください。
上方お笑い大賞・功労賞
桂米之助師匠は、昭和58年(1983)に読売テレビの「第12回上方お笑い大賞・功労賞」を受賞されています。受賞理由は、「大阪落語界の指南役として‘’岩田寄席“を主宰。多くの人材を育成した功績」と成っていますが、それ以外にも功績があります。
一番のお手柄は、五代目桂文枝師匠を上方落語界に引っ張り込んだコトです。
五代目文枝師匠が居てなければ、六代文枝師匠も居てません。六代文枝師匠が居てなければ、「天満天神繁昌亭」ができてないと云うコトに成ってしまいます。
米之助師匠と文枝師匠は、大阪市交通局の職場の同僚です。米之助師匠が先に落語家になっていたんですが、まだ市電で働いてはりました。
ある時、
「踊りを習いたいんやけど、誰ぞええ師匠知ってたら紹介してんか?」
と相談に来たのが長谷川多持青年。後の五代目文枝師匠です。
そこで米之助師匠は、坂東三之丞と云う名取さんで、高座でも踊ってはった四代目桂文枝師匠を紹介しようと思い、六代目松鶴師匠(当時は松之助)に相談すると
「そんな踊りなんかささんと、それよりうまいコト云うて落語家にしてまえ…文枝師匠にはわしが云うとくさかい…」
当時は何しろ一人でも若い落語家が欲しい時です。
「落語家になったら、なんぞええコトでもあるんか?」
と聞かれた米之助師匠、
「女ごにようもてる…」
と、この一言がキッカケで、五代目文枝師匠が上方落語界に入ることに成りました。
私が一番感謝しているのは、落語以外では食べ物の好き嫌いを直していただいたコトです。
「若ちゃん、食べ物の好き嫌いがあったら、人間の好き嫌いもできるさかい、好き嫌いはちゃんと直さなアカンでぇ」
と、お稽古のアト、師匠にいろんな料理を作っていただき御馳走になりました。おかげ様で食べ物の好き嫌いは、見事になくなりました。
人間の好き嫌いは直りませんでしたが……。