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⑬米之助師匠の稽古~師匠三代目桂春団治と見た風景:桂春若

桂春若

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人間国宝・桂米朝師匠と同門の桂米之助師匠は、二足の草鞋を履いた落語家でした。大阪市交通局の職員の一面も持ち、定年まで勤め上げています。それでも落語に関する知識は膨大で、若手落語家の頼りになる存在だったそうです。

桂春若師匠もまた桂米之助師匠に稽古をつけていただいた一人。今回は岩田寄席の生みの親・桂米之助師匠との稽古について、桂春若師匠に振り返っていただきました。

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米之助師匠の稽古

噺家の修業期間は大体3年です。年季明けと云います。今年も何人か年季明けのハガキが届きました。仲には4年以上かかっている人も居てましたが・・・・・・。

3年目に入ると、仕事もボチボチ入って来て、一寸ちょっとでも師匠の家を出る機会を狙っています。

岩田寄席の始まったんが昭和47年、丁度入門3年目。

春団治に「米之助師匠の処へ稽古に行かしてもろてもいいですか」とお願いしますと、

「米やん(春団治は“悦ちゃん”ではなく、米やんとか米之助はんと呼んでいました)は、あんまり舞台に出てないさかい、師匠(四代目米団治師匠)に教えてもろたまま、キッチリ稽古つけてくれるさかい、ドンドン行ったらエエ。行く時はうちの酒一本持って行き」

と気持ち良く送り出してくれました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

米之助師匠のお稽古は、落語はセリフ覚えるだけではイカン、楽しまなアカンとその咄に関する時代背景、風俗など教えていただきました。

師匠は旅ネタが得意で、『東の旅』『西の旅』。『東の旅』の時は暗がり峠、『西の旅』の時には明石人丸神社と、現地へ連れて行ってくれます。

人丸神社へ行った際には、今年5月に惜しくも亡くなった笑福亭鶴志君も「ボクも行っていいですか?」と一緒に行きました。

おそらく後の飲み会をお目当てに来たと思います。

その思惑通り、帰り神戸で下車し南京町で中国料理をご馳走になりました。

稽古でも何でも必ず飲みます。

平成10年11月、朝日新聞創刊百周年落語会で米朝師匠に高松へ連れて行ってもらいました。

出番が二ツ目『兵庫船』を演って下りて、米朝師匠の楽屋へ挨拶に伺いますと

「悦ちゃんのやな。ワシは一寸変えてしもうたけど家の師匠のままやさかい、あのまま伝えて行ってや」

と仰っていただきました。(5.6人にそのまま伝えています)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

又ある時は、「天王寺村へ行こ」と。天王寺村というのは、難波利三先生の小説の舞台『てんのじ村』のことです。

漫才のお師匠さん、色物の芸人さんがたくさん住んではった町です。六代目笑福亭松鶴師匠は、よく天王寺村へ出入りしてはったそうです。

寄せてもろた当時はもう十数人しか芸人さんはいてはりませんでした。

帰りに「浪花節の事務所へ寄ろ」と行った処が、お留守でしたので「ほな百番に行て飲も」(百番というのは飛田新地にある料亭。元は大正時代の遊郭。正式名は「鯛よし百番」)と電話を入れますと「家は5時からです」。

時計を見るとまだ3時過ぎです。と米之助師匠が

「東京からお客さんが来てまんね。どうしてもお宅を見たいと……。今日、新幹線で帰らなアキマヘン。30分でええさかい、一寸飲ましてもらえまへんか?……よろしいか。すんまへん、ほな頼んます」

と電話を切るなり

「若ちゃん、今から江戸っ子に成り……」

「えッー」

江戸っ子といえば、『江戸荒物』を思い出しました。

「いらっしゃーい、何でもありまーす」

「ザルで持って、天秤棒でもって、一貫、二貫、三貫、二四とミカン八百になりやす」

「オウ、アマー。シバチにシがねぇから、シをモッチキナ」……

こうやって若い頃、にわか江戸っ子になったことのある私が東京で独演会を演らしてもらいます。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

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桂春若師匠の思い出コラム次回公開は、11月28日を予定しています。さて、どのようなエピソードが飛び出すでしょうか。今からとても楽しみですね。

文中にもありました東京での桂春若師匠の独演会が11月21日(土)13時からお江戸日本橋亭で開催されます。マグナム小林先生も出演されますので、寄席つむぎ読者は要チェックです!

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