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寄席は流れを見てほしい!繁昌亭アドバイザー・恩田雅和さんにインタビュー!

インタビュー

上方落語の聖地・天満天神繁昌亭。こちらの初代支配人で、現在はアドバイザーの恩田雅和さんをご存知でしょうか。上方に落語の定席を根付かせるべく尽力された、いわば上方落語の影の立役者です。

今回は恩田さんが上方落語協会に来られた経緯から寄席の楽しみ方まで、色々とうかがいました。落語との出会いは偶然だったそうです。お楽しみください!

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和歌山放送のプロデューサーから上方落語協会へ

――私が恩田さんと初めてお会いした約20年前は、まだ和歌山放送のプロデューサーだったように記憶しています。それがいつの間にか繁昌亭の支配人でビックリしました。

私が正式に支配人に就任したのは、2007年1月です。この前の年の2006年9月に繁昌亭がオープンしました。

――あれ?2006年の11月にあったパーティで司会の方が恩田さんのことを「繁昌亭支配人」と紹介された記憶があります。

旭堂南鱗師の芸歴30周年パーティですね。司会をしていた南海さんがいきなり「繁昌亭支配人がお見えです。スピーチをお願いします」とこっちにふってきたからビックリしました。

――この時は誰も何も疑問を抱かず、恩田さんが支配人だと思い込んでいました。もしかして、この時は正式な支配人でなかったとか……?

まだ和歌山放送のプロデューサーです。引継ぎをしている最中でした。大変だったんですよ。当時の副会長の桂春之輔師(現・四代目春団治師)から直々に要請があり就任が決まりました。それが朝日新聞の夕刊の一面に載ってしまったんです。「支配人に恩田雅和さん」と写真付きで。

――ええー!大丈夫だったんですか?まだ会社員なのに。

大丈夫じゃない(笑)。和歌山放送は寝耳に水です。上層部に呼び出されて「他の社員に示しがつかないから、すぐ辞表を書くように」と言われました。担当している番組が多かったので、すぐ辞めるわけにはいかず。引継ぎに2カ月かかりました。

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病床でラジオから聞こえてきた落語が支えに

――和歌山放送時代、恩田さんはラジオ番組をたくさん手掛けておられましたが、最も長寿番組は何でしょうか?

「紀の国寄席」です。桂春雨さんと亡くなられた桂福車さんがDJで、和歌山市を中心に落語会を開きラジオ放送をしていました。1991年秋から2005年まで続きました。

――おお!干支一回り以上しているんですね。すごい。

春雨さんと福車さんを通じて人脈が広がっていって、遂には繁昌亭支配人です。

――お子さんのころから落語に興味があったのでしょうか?

落語に惹かれたきっかけは、慶応義塾大学文学部2年生の1年間の入院です。結核の治療のため故郷の新潟に戻り、病院のベッドの上でラジオばかり聞いていました。不安な日々の中、一番慰めてくれたのが落語だったんです。

――昭和40年代中ごろなら、ラジオの落語番組は全盛期ですね。

退院して復学し、今度は実際に落語を見てみたくなり東京の寄席に通い出しました。昭和47年から48年の新宿末廣亭上席・中席・下席は全て1回は見たかな。卒論が落語になるのは自然な流れです。このまま落語家になる道もありましたが、恋人もできて一緒に暮らそうと。だったら、落語をサポートできる仕事としてラジオ局の和歌山放送に就職しました。

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寄席は流れだからこそ

――恩田さんは落語の番組を沢山手掛けられたといっても、ラジオ局の社員さんが支配人に抜擢は異例だと思います。決め手があったのでしょうか?

実は、上方落語界の方に定席を知っている人が少なかったんです。出演者やスタッフだけでなく、お客さんも知らない。なにしろ60年ぶりの定席ですから。

――言われてみれば、そうですね。ハコさえできれば良いものではない。でも、恩田さんは東京の定席を知っている。

そうそう。2年間、通い詰めました。寄席は流れです。この並びなら、この人が良い。シバリはどんな人が適しているか、モタレはどんな人か。そういうことが身についています。寄席に座って、空間や時間を共有しないと分からないことがあるはずなんです。高座と客席の心のキャッチボールですから。

――キャッチボールと捉えたら、配信だと本当の魅力は伝わりにくいかも。

そうですね。そういえば、生だからこそという出来事がありました。25年ほど前、東京の寄席で色物の芸人がネタで童謡を用いたんです。すると客席でも歌い始めてしまった。この後に高座へ上がった落語家はやりにくいだろうなと見ていると、「ボクの落語もみなさんも一緒にやってください」と。客席は大喜び。そして、その後の出演者の紹介です。ネタはやらなかった。自分の役割はやりやすい客席を作ることだと、前の演者を光らせ次の演者を生かしたんです。

――すごい!流れを作った。まさしく「芸」ですね。

腕がないとできないことです。こういうことが起きるから、寄席は面白い。これをされた当の落語家さんは、「そんなことあったっけな?」と忘れておられましたが(笑)。

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作家も愛した寄席

――この流れが「寄席」という文化ができた寛政年間から、脈脈と続いているんですね。先日、上方落語の定席発祥の地・坐摩神社にお参りしてきたところなんです。

そうですね。最近は娯楽がいっぱいありますが、娯楽が少なかった時代は楽しみを求めて寄席へ。作家や小説家もこぞって足を運んだことは、作品からも伺えます。

――おっ!さすが慶応義塾大学文学部!

実は大阪保険医新聞で『作家寄席集め』という連載をしています。作品から、作家がどの落語の影響を受けているかを解説しているんです。近代の作家は、すべからく影響を受けている。私の高校の先輩の坂口安吾も、寂しくて仕方がない時に浅草で寄席通いをしたとのこと。新潟の親しい友人への手紙に「楽しかった」と書いているんです。

――手紙が残っていると分かりやすいですね。

手紙といえば、私の恩師の越智治雄先生は、六代目笑福亭松鶴師匠や桂米朝師匠と書簡のやり取りをしていたんです。越智先生が亡くなられてからこれらの書簡類を、奥様が私に譲ってくださいました。先代米團治師のハガキもあるんですよ。こちらは繁昌亭のロビーで展示しました。

――お宝じゃないですか!

私の宝物です。どこにも寄贈しません(笑)。

六代目笑福亭松鶴師匠の悲願が繫昌亭

越智先生は昭和49年秋の学術雑誌『國文學』で六代目師匠と対談をしています。この対談で六代目師匠は、「毎日できる場所をつくらなアカン」とおっしゃっているんです。

――六代目師匠の悲願が、繁昌亭ですね。

鶴光さんが特に喜んでくださいましたね。一昨年、繁昌亭が改装工事をしている際も、「工事をしてる繁昌亭、見んねん」と東京からお越しになったほど。

――鶴光師匠、繁昌亭の高座に上がられる際は六代目師匠の形見の羽織紐を付けれているそうです。

上方の定席を知っているのが、四天王と同年代の落語家だけだった時代を考えると感慨深いですね。寄席は人生と同じ。流れがあり、山となり谷となり。だからこそ楽しい。

――恩田さんの人生も寄席っぽいですね。入院してラジオで落語と出会い、その後は上方落語の聖地の支配人です。

ラジオと落語と出会い、夢のような人生を2つ送らせていただきました。

――これから3つ目ですね。『作家寄席集め』があります。それに、支配人からアドバイザーに出世(?)されたことですし。

あ、支配人からアドバイザーになったのは定年退職。今は嘱託職員で週の半分勤務です。

――半分勤務なら、繁昌亭で恩田さんと出会えたらラッキー!

ラッキーかな(笑)。繁昌亭は一昨年の改修で換気システムも新しくして、空気の入れ替えもバッチリ。感染症対策も厳重に行っています。ぜひお運びください。お待ちしています。

天満天神繁昌亭でお待ちしています!

繁昌亭でお待ちしています!

今回はじっくり恩田雅和さんにお話をうかがいました。落語と文学への造詣が深く、質問したことには全部答えていただけて大変勉強になりました。とても楽しい時間で、あっという間の2時間。

恩田雅和さんがアドバイザーを務められる天満天神繁昌亭は、毎日寄席が開催中です。緊急事態宣言中の夜席の時間は変更になっている場合もあるので、ご注意ください。

天満天神繁昌亭

大阪市北区天神橋2丁目1−34

06-63524874

天満天神繁昌亭|上方落語専門の定席
戦後60年ぶりに復活を遂げた上方落語唯一の寄席「天満天神繁昌亭」。 2006年9月の誕生以来、大阪の新名所として、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸の興行が連日執り行っております。昼は週替わり、夜は日替わりでベテランから若手までが登場し、連日バラエティに富んだ内容の寄席をおとどけ。楽しく笑える魅力の“繁昌亭”をご堪能...
執筆者
ふじかわ陽子

◆寄席つむぎ運営管理責任者・あど屋店長◆
コンテンツライター/DMデザイナー/メディアコンサルタント/時々声優
昭和52年広島県安芸郡海田町出身、近畿大学文芸学部卒
平成13年4月上方講談師に入門、平成19年11月病気休業、令和元年9月講談師を廃業、令和2年6月寄席つむぎをスタート。
幼い頃から喋ることと文章を書くことを好み、小学生の時に初めてミニコミ誌を発行。印刷物のレイアウトやデザインを独自に学び、芸人時代のチラシ・DMの作成は自身で。休業時代にはライティング技術を磨き、現在は「何を売るか」を文章で伝えることを生業とする。中でも求人広告は応募率100%を誇る。
猫と陸貝と神社が好き。

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寄席つむぎ