プロレスで「タイトル」といえば、タイトルマッチのこと。チャンピオンと挑戦者による対戦です。これにより新しいチャンピオンが誕生するかもしれない、いやいやチャンピオンは不動だと、ファンも選手も高揚感が増すもの。
笑福亭仁嬌師匠も同じく高揚感を覚えたそうです。特に愛するジャイアント馬場さんがチャンピオンになった時は……。笑福亭仁嬌師匠と一緒に当時を振り返ってみませんか?
タイトルやあ
子供の頃初めて知ったプロレスのタイトルは「インターナショナルヘビー級」であったと思う。当時のチャンピオンはジャイアント馬場さんであった。
「アジアヘビー級チャンピオン」は大木金太郎で「アジアタッグ王座」は吉村道明と誰か(大木金太郎、アントニオ猪木、坂口征二)が組んでいた記憶がある。昭和40年代である。
馬場さんがディック・ザ・ブルーザーを倒しインターナショナル選手権20回連続防衛を果たしリング上でテレビアナウンサーのインタビューで「力道山の20回連続防衛に並びましたね」という問いに「とても先生に追いついたとは思っていません」という意味の答えをしていた。わたいは子供心に「そうか、なかなか先生には追い付けへんねんな」と思った。
当時、世界三大タイトルがあった。
世界最高峰のタイトルはNWA世界ヘビー級王座であった。ナショナル・レスリング・アライアンス、全米レスリング同盟である。歴史も権威も誰もが認めるタイトルであった。
チャンピオンはドリー・ファンク・ジュニア昭和44年にジン・キニスキーからベルトを奪取した。日本プロレス中継がこの模様を放送してくれた。その頃としては画期的なことであった。ドリー・ファンク・ジュニアがジン・キニスキーにスピニング・ト―ホールドを掛けてギブ・アップを奪った映像であった。アナウンサーは伝えた「あの強情我慢と言われたジン・キニスキーからギブ・アップを奪いました」と。
ドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級チャンピオンに就いたことでチャンピオンのイメージが変わった。
それまではチャンピオンはごっついごつごつの「剛」であったが細身の「柔」になった。
次にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンを中心としての団体はWWWF(スリーダブルエフ)ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション、世界広域レスリング連合であった。
チャンピオンは言わずと知れたブルーノー・サンマルチノである。長年ニューヨークの帝王として君臨した人間発電所である。
そしてAWA、アメリカ・レスリング・アソシエーション、アメリカ・レスリング・協会である。チャンピオンはAWAの帝王バーン・ガニア、スリーパー・ホールドで長期政権を築いた超大物である。
当時はNWA、WWWF、AWAのタイトルを日本人が取ることはあり得ないと思われていたが昭和49年ジャイアント馬場さんがジャック・ブリスコから見事タイトルを獲得、1対1からの決勝三本目はランニング・ネックブリーカーでフォール、まさに歴史を塗り替えた瞬間であった。
それから馬場さんは計3回NWAチャンピオンになっている。
ちなみにAWA王座にはジャンボ鶴田とマサ斎藤が就いている。
世界三大タイトルが華やかだった古き良き時代であった。
時のスーパースター、アントニオ・ロッカはビッグ・タイトルには縁がなく無冠の帝王と呼ばれたそうである。
わたいも落語のタイトルはなーんにも取ってませんので無冠の帝王である。
一緒にするなて?
こらまた失礼いたしました。