昔の噺家のスナップ写真を見ると、必ずそばにあるのは灰皿です。楽屋でもどこでもありました。それが今、喫煙ができる場所の方が少なく……。
今回の桂枝女太師匠のコラムは、そんな灰皿がどこにでもあった時代のお話です。五代目桂文枝師匠、かなり理不尽です。理不尽ですが、そこが愛されるゆえんかも知れません。桂枝女太師匠の思い出、お楽しみください!
タバコ
前回は少々プライベートに偏りすぎたので、今回は師匠とのお話しを。
私が入門した頃、師匠はタバコを吸っていた。ショートホープ。喫煙家の方ならご存知だが、通常タバコは一箱で20本入っている。ところがショートホープは10本入り。自動販売機で買うと20本入りと同じ値段で二箱出てくる。買いに行くのは弟子の仕事。私もよく買いに行った。
弟子の修業期間中はタバコは禁止。前にも書いたがタバコ以外にも色々と禁止事項がある。守れるものもあるが守れないものもある。私の場合タバコは守れなかった。
え?修行中はまだ10代じゃなかったのかって? あれ? え?・・・・・・・・・?
細かいことはさておき、このタバコという代物、やめようと思ってもなかなかやめられない。一種の薬物だから当然かも知れないが。ところが最近はほとんど吸えるところがない。喫茶店もダメ居酒屋もダメ、なんとパチンコ店でもダメ! 喫煙スペースはあるのだがパチンコを打ちながらというのはダメになったそうだ。もうパチンコに行かなくなって20年以上経っているのでよく知らないがどうもそうらしい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
依存性のきついタバコだが、ある日突然やめる人もいる。とくに日に50本も60本も吸うようないわゆるヘビースモーカーの人ほどやめるときはあっさりやめる。
私のように日に10本程度という者が一番やめにくい。昨今の風潮で禁煙している人が多いと聞くが、そういう人には頭が下がる。
師匠も私が入門して10年ぐらい経った頃かと思うが、突然タバコをやめた。理由を聞くと、若い頃からの友人がかなり重い病気に罹り、見舞いに行ったときに自分もタバコをやめるからおまえも頑張れと励ましたそうだ。それから一切吸わなくなった。よほど大切な友人だったのだろう。
タバコをやめた人は元々吸わない人よりうるさい。自分がやめられたことが嬉しいというか自慢なのか、吸っている人間に対してかなり見下した喋り方をする。
一度師匠に言われたことがある。
「おまえまだ吸うてんのんか」
滅茶苦茶憎たらしい言い方だった。まあ師匠が弟子にものを言うのに気を遣う必要はないのだが、このときはホントに憎たらしかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからしばらくして落語会があり、師匠のクルマに乗せてもらって行くことになった。
師匠は新し物好きで、クルマも結構頻繁に替えていた。
そのときも買ったばかりの新車で、トヨタクレスタスーパールーセント。
兄弟車のマークⅡ、チェイサーと並んで当時はハイソサエティなクルマ、略してハイソカーと呼ばれていた。なにごとにもお洒落な師匠にはよく似合うクルマだった。
師匠の自慢はクルマそのものではなくオプションの装備品。車内でタバコを吸ったときに天井に付いたセンサーが煙を感知して、後部座席とリヤウィンドウの間に置かれた換気扇のような装置で煙を外に出すというもの。今では考えられない装備だ。だいたい今のクルマには灰皿すらない。クルマでタバコを吸うなんて非常識このうえないということなのだろう。
新し物好きの師匠は自分は吸わないくせにわざわざオプションで高いお金を出してその装置を付けた、それを自慢したくて仕方がない。
そのときは後席に師匠と三味線の内海英華師、私は助手席、運転は弟弟子だったが誰だったかは忘れた。
師匠がうしろから声をかけてきた。
「枝女太、タバコ吸うてもええで」
いくら年季が明けていても普通師匠の前では吸わないようにしている。ましてやその頃の師匠はすでにタバコをやめている。それにクルマの中だ。
「え?よろしいんですか?」
「かまへんかまへん、このクルマはタバコの煙を自動で外へ出しよんねん」
自分で言うのもなんだが私は少々クルマには詳しい。新車で買った師匠のクルマをひと目みた瞬間にその装置が付いていることはわかっていた。でもそれは言えない。
「え?そうなんですか。そしたら1本吸わしてもらいます」
火をつけて数秒後にセンサーが感知したらしく後ろの方でかすかにファンが回る音が聞こえた。するとえらいもんで、前席に漂っていた煙が後方へと流れて行く。そして師匠の顔を包み込むように装置に吸いこまれていった。振り返って見た師匠の顔は・・・ゆがんでいた。
私はまだ長いタバコを灰皿に押し付けて、窓を開けた。