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【追悼】⑤「オレのオヤジは鹿田佳歩」~林家市楼師匠と共に過ごした日々:ふじかわ陽子

ふじかわ陽子

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四代目林家染語楼師匠に平成13年12月19日に入門をされた林家市楼師匠。師匠が実父で、大師匠は祖父といった噺家一家で育たれました。師弟になれば親子関係はどうなるのでしょうか?

ふじかわ陽子が林家市楼師匠からうかがった話をつづります。

なお、この記事では林家市楼師匠を友人として描きたいため、敬称を「くん」とさせていただきます。他、登場する芸人さんたちも、ふじかわ陽子が普段使用している敬称にさせてください。

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「オレのオヤジは鹿田佳歩」

市楼くんと親しくはしているものの、家の行き来はほとんどなかった。さすがに女性の一人暮らしの家へ足を踏み入れてはいけないという知識はあったよう。

それなのに、平成17年2月下旬ごろ市楼くんから一本の電話があった。15時過ぎだったと思う。食道がんで入院中の、染語楼師匠を見舞った帰りらしい。

「今から家行ってええか?梅鉢(うちの猫)と遊びたいねん」

構わないと返事をすると、20分後ぐらいに到着。猫と遊び始めた。うちの猫は知らん人に遊んでもらい大喜び。市楼くんは何を話すわけでもなく、ただ猫と遊んだ。日が傾き始めても、猫と遊んだ。家の中は、猫が走り回る音しか聞こえなかった。

夕方になり、そろそろ飯でも食いに行こかと家を出る。鶴橋駅へ向かう途中、味原交差点で信号待ちをしている時だ。市楼くんが携帯電話を開き、私に差し出した。当時は二つ折りのガラケー。そこには、骨と皮だけの男性の手の写真が映し出されていた。

「これ、オヤジ。もうアカンかも知れん」

普段、染語楼師匠のことを「師匠」と呼んでいたにも関わらず、この日は「オヤジ」と言った。市楼くんに表情はなかった。ただ真っ直ぐ信号を見つめていた。西日が彼の背を照らす。私は何も言えず、どういう感情を抱けば良いのかも分からず携帯電話を市楼くんに返した。その携帯電話は、コートのポケットに無造作に突っ込まれた。

信号が青に変わる。ふたり並んで、前へ進んだ。後戻りは出来なかった。

まだこのころは楽屋で喫煙可だった(クリックで拡大)

それから1カ月も経たないうちに、染語楼師匠の訃報が届く。慌てて市楼くんに電話をかけると、思いの外明るい声で出てくれた。そして言った。「通夜・葬儀は近親者のみで執り行う」と。

「噺家としてでなく、オレのオヤジ・鹿田佳歩で見送りたいねん。家族だけにしてんか」

市楼くんの「四代目林家染語楼」への感情は、愛憎が入り混じるものだったと私は感じている。父は噺家であるが故、家庭を顧みなかった。父が噺家であるが故、家計は苦しかった。それでも父の高座は最高に輝いていた。だから憧れた。

市楼くんが染語楼師匠に入門をお願いした際、噺家になるなら親子の縁を切ると言われたのだそう。もちろん、大好きなお母さんとの縁も切られる。これからお父さんは「師匠」で、お母さんは「奥さん」。染語楼師匠の芸に対する真摯な気持ちが、こうさせた。他の親子師弟でもそうだろう。

一度、市楼くんのお母さんにお会いしたことがある。ワッハ上方7階レッスンルームの楽屋だ。その時の自己紹介が印象的だった。

「染語楼の家内です」

隣に息子である市楼くんがいるにも関わらず、こう言われたのだ。元芸者のお母さんは凛と背筋を伸ばし、粋に着物を着こなしていた。その姿は、残酷なまでに美しかったことを思い出す。

小学生に高座体験をしてもらっている様子。この時は『時うどん』のうどんを食べる仕草を(クリックで拡大)

親子の甘えを断ち切り、師弟になった染語楼師匠と市楼くん。しかし、最期の時ぐらい親子でいたい。林家一門でなく「鹿田家」で見送りたい。息子に戻らせてほしい。

私は元・師匠にこのことを伝えた。元・師匠はじめ元・一門の方々もまた市楼くんの意思を尊重し、参列を見送った。その気持ちが痛いほど伝わったからだ。

それでも参列した芸人はいたらしい。「いっちゃん(染語楼師のあだ名)の葬式に行かいでどうする?」と。親戚は喜んでいたと、後日市楼くんは苦笑いをしていた。

このころから市楼くんの飲酒量は増え始めた。

つづく

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