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【追悼】⑧墓場で稽古~林家市楼師匠と共に過ごした日々:ふじかわ陽子

ふじかわ陽子

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昨年急死された林家市楼師匠。お酒のエピソードが多い方ですが、落語には真摯に向き合っておられました。今回はそのことがうかがえる出来事を。

なお、この記事では林家市楼師匠を友人として描きたいため、敬称を「くん」とさせていただきます。他、登場する芸人さんたちも、ふじかわ陽子が普段使用している敬称にさせてください。

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墓場で稽古

平成16年秋だったと思う。私たちの同期である笑福亭鉄瓶さんのお父さんが他界。私と市楼くん、桂ちょうばさんの3人でお通夜に参列させていただいた。着なれない喪服を身にまとい、奈良県の某お寺へ。真っ暗な町の中、お寺だけが明々と光を放っていたのをよく覚えている。普段とは違う鉄瓶さんの表情に、私たちは何と声をかけて良いのか分からず頭を下げ、手を合わせるしかできなかった。

通夜の帰り、鶴橋駅近くにあった「百番」という居酒屋へ3人で行く。その時、誰かがポツリと言った。

「親が死ぬってどんな感じなんやろ…」

いてくれて当たり前の存在が、いつかは目の前から消える。この自然の摂理に、どう立ち向かっていくか答えは出ない。なにより鉄瓶さんに寄り添いたいのに、寄り添い方がまったく分からず辛かった。

カメラを手にすると表情を作ってくれたのでパチリ(クリックで拡大)

その1年後の平成17年、四代目林家染語楼師匠が他界。市楼くんもお父さんを亡くした。同時に師匠も失った。つけてもらいたかったネタがたくさんあるのに、相談したいこともたくさんあったのに、もうそれは叶わない。ネタは他の先輩につけてもらえば良いが、これから歩む道の道標を失ったのは大きかった。

私はこの時も、寄り添い方が分からなかった。大量の酒を煽ってクダを巻く市楼くんと、一緒にいるしか出来なかった。

市楼くんは「お父さん」も大好きで、本当は色んなところで「お父さん」の自慢もしたかったように思える。本名の「圭人」は、「お父さん」の名前「佳歩」の「佳」の字からつけてもらったものだと、嬉しそうに話してくれたことがあった。他にも色々と楽しいことがあったはず。

しかし、それは出来なかった。それは市楼くんが「お父さん」に見放されたと感じる出来事があったから。自分が「お父さん」について話すのを、「お父さん」が許してくれるか自信がない。市楼くんが中学生か高校1年生のころだったはず。何度も私に話してくれたので、余程ショックが大きかったのだろう。

ショックを抱えたまま、市楼くんは高校3年生で府立東住吉高等学校を中退しフリーターに。今川の実家を出て、今里に居を構えた。その後、21歳で入門志願するまで色々と考えたと言う。その「色々」が何かは、終ぞや聞かせてもらえなかった。

『犬の目』はお話会定番のネタ。目玉をほじくり出す場面では毎回悲鳴が上がる(クリックで拡大)

四代目林家染語楼師匠が亡くなった後、市楼くんの稽古場は染語楼師匠のお墓の前。墓所は自宅のある東住吉区から少々離れているため、毎日ではなかったらしい。高座が上手くいかなかった時は、必ず行っていたと。主に公演後の夜だ。

染語楼師匠が眠るお墓の前で、一心不乱に落語を話す。街灯もまばらな墓所は、とても静かでやりやすかったという。染語楼師匠からつけていただいたネタだけでなく、他の先輩につけていただいたネタも話した。自分を見てもらいたい、自分の行く先を教えてもらいたい。

「お父さんは何か言ってくれるん?」

「言うわけないやろ、死んでんねんぞ。アホかボケ」

案外、冷静だった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

市楼くんのお葬式の時、お姉さんが喪主挨拶で「差し伸べられた手を、なぜ掴まなかったのか」と言っておられた。この言葉に参列者は皆、涙を流す。そうなのだ。多くの人が市楼くんを助けようと尽力してくださった。市楼くんもそれは理解していた。でも、その手は市楼くんが掴みたかった手でなかった。

市楼くんが本当に掴みたかったのは、「お父さん」の手だけだ。

もう少しつづく

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