落語家になると、まず前座から始まります。前座の仕事は多岐にわたり、中でも「お茶くみ」が大変なのだそう。その大変さを三遊亭はらしょうさんにつづっていただきました。落語協会での楽屋では、どのような指導が行われていたのでしょうか?
2009年ごろのお話です。じっくりお読みください。
お茶の出し方
寄席の楽屋には様々なルールがある。一番難しいのは、お茶の出し方である。
これは、前座の頃の話だ。
「おい、はら生」
俺の教育係は、この世界に数か月ほど早く入ったS兄さんである。
三遊亭はらしょうの前座名は「はら生」だったので、よく、「はらなま!」と間違えて呼ばれたりしたが、このS兄さんは最初から「はらしょう」と呼んでくれた、数少ない先輩の内の一人である。
「おい、はら生、今日はお茶の出し方を教えてやる!」
偉そうに言っているが、S兄さんは俺よりも、だいぶ年下である。
年下なのに、兄さんと呼ばなければいけないのに最初は抵抗があったが、S兄さんとは妙に気が合って、すぐに仲良くなった。
「はら生、お茶ってぇのが、一番めんどくさいんだ」
若干、江戸っ子口調になっているS兄さんではあるが、出身が静岡だと言っていたから、この世界に入って、こんな口調になってしまったのだろう。
要するに、カッコをつけているのだが、東京生まれ東京育ちでも、今時、江戸弁の人間など見たことがない訳で、落語家になったことで、日常から「粋」に振る舞ってみようという、そんな田舎くささも、S兄さんの魅力である。
「いいかい、お茶ってぇのはな」
黙って聞いていると、S兄さんの江戸弁にますます磨きがかかって行く。
「師匠方によって、お茶には色んなパターンがあるんだよ、まずな」
パターンという外国語を使用している時点で、既に自分のキャラクターが崩壊し始めていることなど気付くはずもないS兄さんは、江戸の風を吹かせているつもりが、先輩風だけを吹かしながら、これからお茶のルールを教えてくれるようだ。
「まず、基本的には、熱い緑茶、冷たい麦茶、水、白湯の四種類が楽屋には準備されている、この四種類の中のどれを、どの師匠が飲むのかってのを覚えるんだけど、おいおい、はら生、今、お前、四種類位、すぐに覚えられますよって顔をしたな」
全然していないが、S兄さんが教育係の自分に、悦になっているので、ここは後輩として俺は「はい」と返事をしておいた。
「わはは、そんな単純なもんじゃねぇんだよ、いいか、熱い緑茶ひとつとっても、例えば、ある師匠は、熱い緑茶の濃いめ、ある師匠は熱い緑茶の薄め、っていう風に好みが分かれるんだ、それを全員分、覚えなきゃいけねぇ」
歌舞伎の見得でも切りそうな位、大袈裟に語るS兄さんであるが、どうせ、日頃の言動から大した話ではないと思って聞いていたら、ここからが、結構、大した話だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「今から言う師匠方は、特殊なお茶の出し方だ、まずは初級編から」
「なんですか、初級編って?」
「長くなるから、メモを取れよ、熱い緑茶からいくぞ、G師匠は熱め、K師匠はぬるめ、Z師匠は普通」
「えっ、普通ってどれ位の熱さですか?」
「Z師匠の舌に優しい温度だ!」
「いや、分かりませんよそんなの!」
「大丈夫、やっていく内に分かって来る、続いて麦茶だ、C師匠は麦茶、氷あり、H師匠は麦茶、氷なし、続いて水だ、師匠は常温、師匠は冷たい水、F師匠は氷入り」
「すいません、冷たい水と、氷入りの水は違うんですか?」
「冷たい水は、冷蔵庫の温度、氷入りは、氷入りだから、冷たい冷たい水だ!」
何を言っているのかよく分からないが、F師匠には氷がないと怒られるということなのだろう。
「次は、白湯、E師匠は熱め、T師匠はぬるめ、R師匠は、普通だ、メモ取ってるか?」
「は、はい」
思ったより情報量が多くて、俺はペンが追いつかない。
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そんな困惑している俺をニヤニヤと見つめながら、S兄さんは、まるで古典落語の言い立てのようにスラスラと続きを話し始めた。
「では、これより中級編だ、J師匠は、緑茶、濃いめの熱め、U師匠は、緑茶、薄めの熱め、L師匠は、緑茶、濃いめの普通、M師匠は、緑茶、薄めの普通、
N師匠は、緑茶、濃いめのぬるめ、O師匠は、緑茶、薄めのぬるめ」
「ちょ、ちょっと待って下さい、今のが中級編ですか!?上級編が想像がつかないですけど」
「よし、覚悟して聞け、上級編は、D師匠は、緑茶、普通よりぬるめ、W師匠は、緑茶、ぬるめより普通、Y師匠は、緑茶、普通に近いぬるめ、続いて、白湯は、V師匠は、白湯、普通よりぬるめ、P師匠は、白湯、ぬるめより普通、H師匠は、白湯、普通に近いぬるめ」
「いやいや、さっきから何を言ってるんですか?」
「お茶の入れ方だよ」
「もはや、意味が分からないですよ」
「意味なんて考えるな、とにかく覚えろ、メモを取れ、もっかい言うぞ、
D師匠は、緑茶、普通よりぬるめ、W師匠は、緑茶、ぬるめより普通、Y師匠は、緑茶、普通に近いぬるめ、続いて、白湯は、V師匠は、白湯、普通よりぬるめ、P師匠は、白湯、ぬるめより普通、H師匠は、白湯、普通に近いぬるめ」
「ちょっとちょっと、それ、さっきと同じですか?」
「同じだ、もう一回言おうか」
「いや、もういいです」
「そして、最後は、番外編、B師匠はダブル!」
「なんなんですか、ダブルって!」
「緑茶と麦茶を両方出す!」
「それがダブルですか!」
「ちなみに、この緑茶の温度と、麦茶に氷を入れるか入れないは・・・」
「ああ、もう訳が分からない、そんなにこだわりがあるなら、みんなお茶なんて自分で入れたらいいのに!」
「ちなみに、お茶を出さなくてもいい方もいる、A師匠と、Q師匠とX師匠だ」
「おお!それは素晴らしいですね!」
「ただ、間違えて出したら、ブチ切れられる可能性もある」
「いやいや、怖い、その三人は最初に覚えます」
ようやく終わったS兄さんのお茶レッスンは、予想をはるかに上回るほど難解だった。
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そして最後に、S兄さんは、こう言った。
「いいか、この情報だけどな、この情報すべてが、初級編だ」
「どういう意味ですか?」
「ある師匠は、昔は熱いお茶だったが、最近では冷たいお茶になっている場合もあって、つまり、情報が更新されている場合もある!」
「えー!じゃあ、間違えたらどうするんですか!?」
「とりあえず、怒られろ!ガハハハハ~」
S兄さんは笑いながら、楽屋の方へ入って行った。
そこへ、入れ替わるように、Y師匠が入って来た。
「おはうようございます!」
頭を下げた俺は、早速、メモを見返した。