寄席つむぎ代表のふじかわ陽子です。この度は『林家市楼師匠と過ごした日々』をお読みいただき、誠に有難うございました。感情の整理のつもりで書いたものを、多くの方に読んでいただけたことが嬉しかったです。本当に有難うございます。
この『林家市楼師匠と過ごした日々』を書き上げたのは、昨年の11月末です。訃報が届いてすぐ執筆を開始し、推敲期間を含め10日ぐらいで仕上げました。なので、記憶違いがあるかもしれません。(第1回で間違えた「東西(仮)名人会」に一緒に出演したという記憶は、時期が違っていただけで合っていました。↓証拠)
あと、私と市楼師以外の方が一緒にいたエピソードもありますが、ご本人に了承が得られていないので省いています。写真も同じく。現在、記事に名前が出ている方は、あとで謝れば多分許してくれる方。
まあ好き勝手に書かせてもらいましたが、「死人に口なし」と言われんようにはしています。市楼師が知られたくないと思われることも省いているつもりです。嫌なら、今すぐ帰ってくればええねん。
そもそも、こうやって私が市楼師について書くことを、市楼師はどう思うのかなぁという心配はあります。絶交して3年やからね。あと、市楼師はこう言っていたのを思い出します。
「俺と仲ええって知られん方がええで」
何をしでかしてきたんかは聞きませんでしたが、各方面から耳に入る蛮行の数々にある程度想像はつきます。だからといって、過去を変えることはできません。私の返事は以下の通り。
「へー」
その場で写真を撮って、Twitterに投稿。
スマホを向けられたらポーズを取らざるを得ない、悲しい芸人のサガ。まんまと私のTwitterに載ることに。バカめ。縁が切れると思うなよ。
また連絡しようと思っていた。でも、何をきっかけにしようか悩んでいた。市楼師は『死にそな師匠ランキング』で名前を挙げていたお師匠さん方に連絡がしたいようだったので、「インタビュー記事を書きたいから、間に入ってもらえんかな」とお願いすれば良かったかな。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ほんと、色々助けてくれたなぁ。
私に不眠や神経症状が出始めたのは平成18年、最初に気付いてくれたのが市楼師だった。不安神経症で家から出られなくなっていると分かってからは、現場が同じなら家まで迎えに来てくれた。パニック発作で動けなくなった時は、急かすこともなく一緒にいてくれた。
私の状態を母や当時の恋人に知らせてくれることもあった。
「ちゃんと仕事に行けました。大丈夫です」
こんな短いメールでも、2人はとても安心できたと言っていた。本当に助かった。嬉しかった。こういうことがあるから、クソ電で罵られても憎むことができない。
色々してくれたのに、裏切ってごめんな。裏切りたくなかったんやけど、裏切った形になってしまった。本当にごめん。
こんだけ後悔するなら絶交せんかったらええのにね。でも、あの時は距離を置いた方が良かった。絶交が最適解だった。仕方がなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
おーい、市楼。死んで半年経ってるし、もう酒が抜けてるやろ。連絡してきてええで。たまには、シラフで話そうや。また「お話会」やろうぜ。デブ1号2号で、小学生をドッカンドッカン笑かしたろうや。
今度は私が市楼師に言わなくちゃいけんね。
「早よ帰ってこい。みんな待っとるから」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最後までお読みいただき、有難うございました。今後、私が寄席つむぎで自分の思い出を書くことは多分ありません。書くことはありませんが、喋ります。講演会にお越しください。題して「私、講談師を辞めました」。暴露はないよ。無難なお話を。
第1回は5月19日(金)14時開演。詳しくは後日。