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弟子の楽屋入りで僕は一七年前を回想する~SFと童貞と落語:笑福亭羽光

笑福亭羽光

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2月12日に無事初高座を終えた、笑福亭羽光師匠の一番弟子である笑福亭羽太郎さん。多くの方にエールを贈られ、次なる修行は楽屋入りです。

弟子の楽屋入りで笑福亭羽光師匠は、ご自身が楽屋入りをしたころを思い出したのだそう。脳裏に駆け巡る日々に、笑福亭羽光師匠は何を思われたのか。

今回も読み応え十分です。じっくりお読みください。

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弟子の楽屋入りで僕は一七年前を回想する

 二〇二四年二月下席(21日~30日)、弟子が見習い前座として楽屋入りした。

落語三席(秘伝書、狸さい、牛褒め)を覚え、着物のたたみ方、基本的な太鼓のたたき方をマスターし終えたのだ。

入門志願に来たのが二〇二三年十二月七日だったので、そこから三か月もたたないうちに楽屋に入ることになる。激動の二か月半だっただろう。

これから四年間、落語芸術協会の前座として、寄席で修行する。お茶くみ、高座返しから始まり、師匠方の着物をたたんだり、太鼓をたたいたり。

前座として落語を口演するのはどちらかといえば付随であり、前座仕事とは寄席の用事をするという認識である。

時には怒られ、ごくたまに褒められ、毎日寄席の昼席か夜席かに行き、働く。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 弟子の楽屋入り前夜、僕は一七年前の自分の楽屋入りのことを思い出していた。

 お笑い芸人として売れず、漫画原作者としてはYJの週刊連載は打ち切られ、僕は絶望に打ちひしがれていた。精神的にもかなり病んでいた。三四歳という年齢は、何か新しいことをするには年を取り過ぎているように感じたし、気力も無かった。

不眠解消の為、毎日落語を聴きながら寝ていたし、落研で落語をやっていたので、落語家になりたいという気持ちは随分前からあった。

しかし、普通は高卒後すぐ、大卒後すぐで入門するのに、三四歳、人生半ばから落語家になれるものだろうか?と疑問と不安があった。

 浅草演芸ホールで師匠を出待ちして、入門希望を伝えると、一瞬でOKが出た。四月に入門志願して六月から楽屋入り。かなり短いスパンでの楽屋入りである。落語一席と、着物や太鼓を兄弟子に教えてもらう。

楽屋入り前夜は、新しい世界が自分を受け入れてくれるか不安でいっぱいだった。

楽屋入り初日、浅草演芸ホールで、小痴楽兄さんや小笑兄さんに、親切にしてもらい、大変快適な前座修行が始まった。

どちらかといえば、精神のリハビリのために落語家になったような部分があるので、毎日汗だくになりお茶出したり高座返ししたりという単調な仕事が心地よかった。

それに、一緒に前座修行した先輩達、後輩達は、皆良い人だった。僕は青春時代を追体験していた。

前座仲間と酒飲んで、輝かしい未来を語る時、僕は口には出さないが、心で思っていた。

(僕には、兄さんたち程、未来は残されていないんですよ)と。

夜も、労働の疲れでぐっすり眠れるようになった。僕の精神は回復した。前座修行というリセット期間が、過去の挫折を忘れさせてくれたのだ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

あっという間に四年たち、もうすぐ二つ目になるという時、楽屋の師匠から「全然楽しそうじゃねえな」といわれた。

普通は、二つ目になる時は、修行から解放され自由になるので、嬉しいそうだが、僕はまた孤独になり自分と向き合わなければいけないと思うと憂鬱だったのだ。

 今、改めて思う。

過去の辛いことや、落ち込んだことも、たいていのことは、想い出になる。映画のシーンが連続しているように。今なら自分の人生の全てのシーンを愛おしく感じることができる。

現在につながる道だ。 

 二四歳で楽屋入りした弟子に、輝かしい未来が待っていることを祈らずにはいられない。

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