桂米朝師匠の師匠といえば、四代目桂米團治師匠です。でも、もう一人「師匠」と呼べる人がおられたのはご存知でしょうか。その人こそ、正岡容先生です。米朝師匠を語る上で避けられない人物で、米朝師匠の落語家としての土台を固めてくださった人物です。
この正岡容先生について、米朝師匠直々にお話をうかがった弟子の桂米左師匠につづっていただきました。米左師匠は改めてご自身の師匠の偉大さに気付かれたとのこと。お楽しみください。
正岡容先生
容≪いるる≫と読みます。寄席研究家であの浪花節の名作『天保水滸伝』『灰神楽三太郎』の作者でもある。
寄席研究家・・・実に不要不急な研究家ではないかと。ですがこの正岡先生の存在があればこその現在の寄席文化、研究に多大な功績影響を与えている事は間違いのない事である。
なぜ桂米朝のコラムにこの寄席研究家正岡容先生が登場するのか?
それは師匠米朝が東京での学生時代・・・これ凄いですね。戦前の旧制中学校進学率は現在の大学院進学率より低く、なおかつ大学に進学するなんてエリートですよ、ホント!
・・・師匠は賢いんや!・・・に師事したのが正岡容先生なんです。
ですから米左は正岡先生の孫弟子にあたるんです・・・。それがどうしたと言われればそれまでですが・・・。
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正岡門下には小沢昭一、加藤武、都築道夫、大西信行(敬称略)等々、錚々たる面々が門下生として名を連ねている。師匠はどのあたりかというと、なんと、正岡一門の筆頭弟子やそうです。
この出会いというのがあまりにも不思議で、なるべくしてなったというか、必然というか、何かの導きと言うか・・・どないやねん!
師匠が上京した時には既に戦況は悪化しており空襲も始まっておりました。物資は日に日に不足し、特に嗜好品などは無いに等しい状態やったそうです。甘い物も然り。
市中から甘い物が消えていく中、師匠は穴場を見つけはったそうです。
「あのな、町中で甘い物探すのは大変どころか無いんや。けど穴場があってな、花柳界の喫茶店には割と遅うまであってな、ワシもよう行った。まぁ小さいケーキと美味ないコーヒーとかな。あと饅頭とお茶とか。ま、あるだけ嬉しかった。で、下宿まで歩いて帰る途中どこをどう通ったか覚えてないけどふと見たらな≪正岡容≫という表札を掛かってたんや。あの時はもう別に何も考えんと気が付いたら戸を開けて『先生はご在宅でしょうか』と訪ねてたんや。今思たら縁やったんやな」
と言うてはりました。
この正岡先生との出会いが無ければ今の上方落語、桂米朝は違ったものになっていたかも知れない。また正岡先生に言われたこの言葉が桂米朝、中川青年の後の人生を決定づけたといっても過言では無いと思う。
「伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ。」