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⑮学徒出陣~師匠桂米朝と過ごした日々:桂米左

桂米左

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大正14年生まれの桂米朝師匠。この年代の方の青春は、戦争とともにありました。この時代があったからこそ、現代の繁栄があることを私たちは肝に銘じなければなりません。

今回は桂米左師匠に、桂米朝師匠と大東亜戦争についてつづっていただきました。今、私たちがここにいられることを大切に思えるコラムです。それでは桂米左師匠の思い出コラム第15回のスタートです。

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学徒出陣

師匠の家でお酒の相手をしてる時…って、いつも師匠の家で飲んでるな、仕事をせんかい仕事を!…ひょっとして師匠のお酒の相手をするのが私の仕事やったんやろか…。

テレビから「今日は学徒出陣の壮行会が行われた日で…」という話題が。 学業半ばで兵士となり戦地ヘ赴く学徒の壮行会が昭和18年10月21日、雨の明治神宮外苑で行われ陸軍分列行進曲が演奏される中、学徒が行進するあの有名な画像が流れた。

その時師匠が話を止め、飲むのを止め、テレビの画面をじっと見つめながら「ワシなぁ、これ見送りに行かなあかんかったんやけど行かれへんかったんや…」と静かに言いはった。 自分の先輩友達が戦地ヘ行く、その壮行会に行く事ができなかった。

なにか余程の事、事情が師匠の身にあったに違いないと私は思った。

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話は師匠が亡くなって3ヶ月後に飛びますが、朝刊の一つの記事が目に入った。2年前(記事の2年前)に沖縄の洞窟で見つかった一人の兵士の遺品がようやく遺族の元へ返ったとの事。 その品は万年筆のキャップでそこにはその兵士の名前が彫られていた。

その名前というのが「中川清」…そう、師匠米朝の本名と同姓同名、字も違わず歳も同じだった。 このコラムの2回目『師匠桂米朝』の項で、検査で間違われそのまま入院、病院で終戦を迎えたと書きましたが、その間違われた人がこの万年筆の持ち主の「中川清」さんではないかと思ったが、所属も部隊も違う。「中川清」という名前は特別珍しい名前という訳でなく同姓同名は五万と居る。

居てはいますが師匠が亡くなってすぐに何十年の時を経て「中川清」さんが家族の元へ帰ったというのは、なにか因縁を感じた。

この方々のお陰で今の、落語が出来る平和な有難い世の中があるという事を感謝し忘れてはいけない。

また私の車に乗って頂いた時、戦時歌謡·軍歌を流していて止めようとしたら「そのままでええ、ワシらの若い時分、青春時代はこんな歌しかなかったんや」と言いはりずっと聞いてはりました。

酔った時一緒に〽銀翼連ねて南の前線…と「ラバウル海軍航空隊」を歌った事もあった…私しゃ何歳や? 奥さんもよく〽藍より蒼き大空に大空に…と「空の神兵」を歌ってはりました。

あの時代を生きてこられた方々は、あの時代の人にしか判らない、私等にはうかがい知れない事があるように思う。  

話は酒席の場に戻ります。 画面に見入っている師匠に「なんで行けなかったんですか」と聞くと、暫くの沈黙の後「…ワシなぁ…下宿で寝坊して行かれへんかったんや」 おいおい!そんな理由かい!

噺家としての基礎がすでに出来てたんや!

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