現在は東京を中心に活躍中の笑福亭鶴光師匠。初めて東京で活動を始められたのは、今から30年以上も前だったのだそう。最初から順風満帆とはいかず、紆余曲折の連続。そんな時、笑福亭鶴光師匠の師匠である六代目笑福亭松鶴師匠の存在が大きくなります。それは……。
東京と大阪の違いに戸惑いながらも奮闘する笑福亭鶴光師匠の姿に、勇気をもらいましょう。大好評笑福亭鶴光師匠のエッセイコラム、第31回の幕開けです。
水に合う
芸人は下手も上手もなかりけり、行く先々の水に合わねば。
東京大阪新幹線で二時間半の時代でも、まだ上方落語と江戸落語には隔たりがある。何とかこの壁をぶち抜いてやろうと東京に単身乗り込んだんですが・・・。
東京の楽屋には、根多帳と言うのが有る。これにまず驚いた。大阪の寄席角座は落語が一本か二本、だからまずネタが被る事が無い。東京は落語中心やからこれが無かったらもう大変。
大阪の根多帳は漫才や音楽ショーの人のネタが書いてあった。これが東京との違いです。
落語以外はネタのタイトルが書いてない。
漫才「あほの日記」音楽ショー「お笑い忠臣蔵」コント「国定忠治」
こんな感じ。
東京のネタ帳を見て思ったのは、滑稽話の70パーセントは上方から江戸に移したもの。『時うどん』が『時そば』、『鴻池の犬』が『おおどこの犬』、『高津の富』が『宿屋の富』と数え上げたらきりがない。
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私が落語芸術協会に入れて頂いた時、上方落語は二代目桂小南師匠只一人でした。
「久しぶりにライバルが出来たなぁ」
光栄なお言葉です。
『代書屋』『いかけ屋』『ぜんざい公社』
200くらいネタを持ってらっしゃったそうです。後に小南師匠の肝いりで三越名人会に出させて頂きました。
40歳の時東京で月~金の夕方ニッポン放送で噂のゴールデンアワーと言う番組を担当してまして、レポーターの女性講釈師の真打披露のパーティーに顔を出しまして、その時の会長が桂米丸師匠で副会長が春風亭柳昇師匠。挨拶に伺うと柳昇師匠が
「君はいくつや」
「はい丁度40歳です」
「それならまだ間に合うな、東京にラジオで毎日居るのやったら、東京の寄席で修行してみる気は無いか」
私は噺家になって東京の寄席に出るのが夢でしたからもう二つ返事で
「よろしくお願いい致します」
3日経ったら柳昇師匠から電話がありまして、来月の上席新宿末広亭に出てみないかとのお誘い。
「有難う御座います」
普通顔付け(番組を組むこと)三か月前に決まる。それを師匠の力で無理やりはめ込んでくれはった。
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初日楽屋では芸歴20年の私が小さくなってました。すると大看板が次から次へと入ってくる。挨拶すると
「あんた松鶴さんの弟子か、大阪では世話になった、終わったら飯食いに行こうか」
「有難うございます」
又他のベテランは
「恩返しがやっと出来る、稽古つけたろか」
「是非お願いい致します」
十代目桂文治師匠は
「40歳ならこれからや。50歳過ぎて落語に力入れ出す奴も居るけどそれは手遅れ、やるのは今や」
そう言ってくださり『女給の文』と言う噺を教えて頂きました。
柳昇師匠には
「噺家は10日間ある内に、今日の客はこのネタやと決めて成功する確率が7割やなかったらプロとは言えん。パーフエクトも天狗になる危険性が有る。3割しくじる方が将来良い噺家に成れる。噺家は高座で上手にしくじるのも必要だよ」
この時、昔の松鶴とのやりとりの手紙を記念にいただきました。相当年数がたって変色してましたが、そこには「光鶴(松鶴枝鶴の前の名前)から柳之助くんへ、お互い青年落語家として頑張りましょう云々」と書かれてありました。
手紙は色褪せてましたが二人の情熱は決して色褪せていませんでした。