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忌野清志郎~優々の音楽AtoZ:桂優々

桂優々

音楽好きな落語家である桂優々さんがよくされる質問。それは、「なぜバンドや音楽のアーティストにならなかったのか」ということ。

ここまでの記事を読んでいただいた皆様もそう思ったことではないでしょうか。
桂優々さんが音楽の道を志さなかった理由にはお父様の存在が大きいようです。今回もお楽しみください!

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忌野清志郎

しばらくお休み頂きました。

ちょっと遅めの育休として、容赦下さい。

これで今回のコラムも、自己紹介の部分を除くと9回目です。

音楽好きな事がわかって頂けてると思いますが、プロフィールにも音楽好きと書いているそんな私が、よく聞かれる質問があります。

「なぜバンドや音楽のアーティストにならなかったんですか?」

楽器は小2くらいから3、4年間ピアノを習っていました。

ただろくに練習もせず、先生の前で前回の宿題を練習すると言う不真面目な生徒でした。

絶対音感もなければ初見の楽譜を見ながら弾くこともできません。

ただ、小学校時音楽のテストで男子の中で一番点数が高かったのは間違いなくピアノを習っていたおかげでした。

まあ、ピアノはさておき、ロック好きならギターやベース、ドラムなどはと聞かれますがこっちは全く弾けないし、叩けないです。

ギターは中学の授業でアコギの時間があり、何か一曲弾いた事は覚えてるのですが、何を弾いたかすら忘れてしまったので、コードが読めるわけもないです。

何で楽器に興味を持てなかったか?

一つはやっぱり高校までは野球第一の生活をしていたので、楽器の練習するくらいなら野球の練習や、休息にあてたかったからでしょう。

それ以外にもまだテレビやゲームなどに興味がいく年齢だったので、楽器を練習すると言う考えがなかった。

もう一つは人前で発表するのが恥ずかしかったから。

「人前で喋る事を生業にしてるやつが何言うとんねん!」と言う至極真っ当なご意見は真摯に受け止めます。

ただ当時は嫌だった。

ピアノの発表会も一度だけ出て、それ以外は野球の練習や試合を優先していました。

音楽的な事で言ったらクラスの合唱ですらもそうでした。

特に中学の時、私声変わりが遅かったんです。

周りの声がどんどん低くなっていく中、まだ少し甲高い声で歌ってる。

しかも地声だけは大きいので周りから白い目で見られて浮いて嫌な思いをしました。

だからどんな形でも音楽を奏で歌うと言うのは好きになれなかった。

そして明確な理由がもう一つだけあります。

それが父親です。

特にこれはギターに関してです。

今でこそ、父親に尊敬と感謝の念を持っていますが、高校くらいまで父親があまり好きではなかった。

もちろん嫌いと言うわけではないです。

反骨心と言うか、父親への反抗と言うか、男同士だからなのか、身近だからなのか、自分でもうまく説明がつかないですが、とりあえず父親みたいになりたくないと言うわけのわからない目標がありました。

父親はギターが弾け、子供の頃なんか私や妹の前で弾いてくれました。

こちらからリクエストする事もあったと思います。

ところがある時から、どこか粋がってるようで嫌になり父親みたいになりたくないの精神で、

「ギターを弾けるようになると父親みたいになる。」

と思いからギターを遠ざけていました。

もし当時自分がギターを弾き始め、今よく聴いてる音楽のジャンルに出会ったら、そっちに没頭し、落語も聞かず売れないバンドマンになってたかもしれません。

だからなぜバンドやミュージシャンにならなかったかと言うと、父親みたいになりたくなかったからです。

父はミュージシャンでもないのに。

父親は地元のマキノ中学から岐阜の高専に進み卒業後就職、いくつかの設計事務所を渡り歩き、私が中学の時家業を継ぎました。

実家は曾祖父が木こり、祖父が材木店、父親の代で建築業と営業形態をその時々で変えてる自営業です。

私も長男ですし本来なら跡を継ぐのが筋ですが、建築に興味がなく、先ほど書いた父親みたいになりたくないと言う思い?中学生時分は教師になりたいと言う明確な夢もあったので、

「家を継がない。」

と早々に宣言しました。

今、父親の立場になってみると悲しい事だったと思います。

曽祖父の代から三代続いた家業がなくなるわけですから。

ただ今でもそうですが残念ながら、建築に興味がない。

父親ほど建築業を愛せないと思っています。

強烈に残ってる思い出があります。

今となっては設計図はパソコンで作られる事がスタンダードのようですが、私が小学5年生くらいまでは手書きでした。

小学校2年生の時、寝ようと寝室に入ると、先に父親がいました。

暗くなった寝室で手元だけ照らせるライトをつけ、設計図を引いてます。

珍しい光景ではなく、父はベットで寝転びながらよく引いてました。

黒と昔あった赤色が青色が真ん中で分かれていて、貧乏削りすると二色で使える鉛筆の二本、そしてボールペンに砂消しゴムを使って一生懸命に。

子供なんで興味本位でどんな家か気になります。

「どんな家なん?」

と聞くと、

「いやこれは趣味で引いてるだけや。」

依頼主がいて家に仕事を持ち込んでるのではなく、ただただ自分の好きなように好きな家を引いていたのです。

もちろん寝室で引いていた全ての設計図が趣味ではなかったと思います。

ただ当時の私は驚きました。

仕事なんて嫌なもの、面倒臭いもんだと思っていましたから。

それを仕事でなく、妄想だけで設計図を作る。

適当に依頼主の設定を考え引いていたのか、将来自分達家族が住む家の理想を考えていたのかそれはわかりませんが、衝撃でした。

今となっては好きな事を仕事にできたんやなと、この世界に入って思います。

父親は設計でしたが私は落語だった。

父親みたいになりたくないと思いながら、父親みたいに好きな事を仕事にしてしまい、結局父親みたいになってしまいました。

血は争えないと言う事ですね。

今では父みたいになりたくないとは流石に思わなくなりました。

いつまでも反抗期背負ってる場合でもないですしね。

父親も音楽が好きです。

レコードを50枚くらい持っていますし、若い時はライブにも行っていたそうです。

忌野清志郎さん、泉谷しげるさんなんかが好きだそうで、若い時のタモリさんも生でライブで見たとか言っていました。

そこも血が争えないのかも知れません。

3、4年前父親から仕事をもらい、終演後世話人さんと父も一緒にカラオケ喫茶に行く流れに。

「優々さんも歌って下さい!」

と言われ周りは父親世代の方ばかりだったので、その世代に合わせてRCサクセションの『雨上がりの夜空に』を歌い終わると、父親が驚いていました。

「お前この曲知ってるんか?」

知ってるから歌ったんやがなと思いながら、父親は少し嬉しそうでした。

次に父親が一人でピンクレディーを歌い始めた時、やっぱりこんな父親になりたくないと久しぶりに思いました。

滋賀で仕事があると、ちょくちょく世話人さんから、

「お父さんにお世話になってます。」

と話しかけられます。

その度に恥ずかしく思うのですが、改めて父親に感謝と尊敬の念を抱くのです。

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執筆者
桂優々

昭和61年滋賀県高島市に誕生
平成21年、桂雀々に入門
龍谷大学卒業後、桂雀々に入門、同年7月「雀々の夏の噺を聴こうの会」で初舞台。基本に忠実かつ力強い高座で入門わずか3年で第13回新人お笑い尼崎大賞最優秀賞を受賞。入門5年後にはHEPホールで記念の会を開催するなど、活躍が目まぐるしい若手。大阪と東京の二か所に拠点を持ち、全国を奔走中。音楽フェスに足繁く通うスイーツ男子。 

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