桂春若師匠の思い出の人の一人が、兄弟子の桂春輔師なのだそうです。後に春団治一門から離れ、祝々亭舶伝と改名し活動をします。
今回は桂春若師匠に舶伝師の「春輔」時代の思い出をつづっていただきました。奇天烈で優しい方だったそうですよ。お楽しみください!
兄弟子 桂春輔
去年の暮れ12月24日、心斎橋角座で開催された大阪落語まつり「鰻谷寄席」で、私の前の出番で七代目笑福亭松喬さんが『動物園』を「トナカイ」で演ってはりました。
下りて来て出囃子の鳴っている入れ替わりの間に、「今日しか出来んネタ、面白いナァー」と伝えると、松喬師も「ですから、10年ぶりぐらいです」と仰っていました。
その時、思い出したのが、以前『⑤島之内寄席~その2』の項に書きました桂春輔兄がダイエー京橋亭で演った『象の動物園』です。コアな落語ファンを爆笑させていました。
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とにかくエピソードの多い兄弟子でした。
まず入門のお願いに行ったのが、昭和28年の二代目桂春団治師匠のお通夜の席。二代目師匠が亡くなっていたのを知らんかったらしいです。
私が初めてお会いしたのが、春団治宅での修業期間。
お子さんを連れて遊びに来はりました。その時は落語家でなくサラリーマンでした。昭和42年から48年の復帰まで噺家を廃めてはりました。
私の年季明けと春輔兄の復帰祝を一緒にしていただきました。
いろいろと話題の多い兄弟子ですから、仕事はすぐにありました。
翌日の昼は角座の落語会、夜はABCラジオ「パルコ十円寄席」とかけもちです。サラリーマン時代に創った新作落語『人間タクシー』を演っていました。
人を背負った格好で舞台を歩きまわり、クラクションはオナラでした。
印象に残ったマクラがあります。
「うちの犬の名前、ジョンといいまんねん。鳴く時はワンと言いません。ウェーンと鳴くんです。……ジョン・ウェイン」
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変わってんのは高座だけではありません。
天ぷらは衣をはずして食べます。ざるそばを食べる時はソバだけ先に食べて、つゆはアトでイッキ呑み。
「腹に入れたら同じや」
師匠が胃の手術で入院した時は、お見舞いに洗剤を持って行き、
「これで胃を洗うてください」
師匠が「痔の手術せなアカンねん」と云うと、
「痔、手術したらアキマヘン。師匠が痔(治)切ったら、春団治やのうてハルダン(春団)に成ります」
服装は顔には常に2枚マスク。鼻と口に上下2段掛け。靴下は2枚重ねのスタイル。
若手に稽古をつける時は、自宅近くの公園のブランコ。家に噺家は上げません。
私は一度『八問答』の稽古で上げてもらいました。
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新世界の新花月では、落語家唯一のスターでした。
新花月のお客さんは、ほとんど落語が嫌いです。
落語家が出て行くと、
「わし、落語嫌いやねん。歌、唄え」
ある落語家が歌を唄うと、
「歌、もうええわ。落語演れ……」
そんな落語嫌いのお客さんを、高座で飛んだりハネたりして笑わせていました。
優しい兄弟子で、気も遣ってくれます。
新花月で出番が一緒の日の初日、
「初日や、若ちゃん、てっちり食べに行こ」と誘うていただきました。
丁度、松ちゃん(笑福亭松葉、のちの七代目松鶴)も遊びに来てましたので、3人で「ずぼらや」へ行きました。
店に着くと兄弟子が注文します。
「姉さん姉さん、てっちりを2人前でボク、きつねうどん」
「えっ、兄さん、てっちり食べませんの?」
「わし、フグ嫌いやねん……」
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六代目松鶴師匠も米朝師匠も
「春輔はオモロイオモロイ」と云うて喜んではりました。
可朝師匠も仁鶴師匠も凄く気にかけてくれてはったようです。
兄弟子の一寸でも売れてる姿を見たかったです。