プロを決意する瞬間、それは落語家なら誰しもあります。桂枝女太師匠も決意した瞬間が訪れました。それは……。ちょっと後ろ向きな理由かも。でも、そんな理由でプロになり、今や上方落語協会理事ですから何があるか分かりません。
桂枝女太師匠の青春時代、一緒に体験してください。第22回のスタートです。
プロになるしかない
中学3年生の夏休みに完全に落語にはまった私は、成績はダダ下がり。
それはそうだろう、学校から帰っても勉強は一切しない。ずっと落語のテープやレコードを聞いたり本を読んだり。自慢ではないが私は落語に出会う前まではかなり成績優秀な方であった。(少々自慢)
定期テストなどではたいがいクラスでトップに近い成績を修めていた。点数で言うと全教科平均で90点以上。なかなかできませんよこれは。
ところが2学期の期末テストでは平均点が30点前後にまで落ちてしまった。さすがに国語と社会は50点以上取れていたが、それ以外は目も当てられなかった。
これではとても高校なんて行けない。まぁいいか、中学を出たら落語家になろう。プロになってやろう。落語家さんに対してこんな失礼な話しはない。勉強ができないから落語家にでもなろうというのだから。
いろいろと落語のことを勉強しているうちに、落語家の世界についてもおぼろげながらわかってきたことがあった。そのひとつが、弟子入りするには親の承諾がいるということ。
「なにをアホなこと言うとんねん」。そう言われるに決まっていた。
父親は鉄骨関係のサラリーマン、洒落ではなくかたい仕事だ。
しかも悪いことに私はひとりっ子。これは辛い。芸能界入りの最大の障壁だ。
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しかし、ぐずぐず考えていても仕方がない。思い切って言うことにした。どうしてもダメなら家を出るつもりで。人間誰しも一生に一度くらいこういうときがあるものなんですね。
「俺、成績もこんなんやし、プロの落語家になろうと思うねん」
父親から返ってきた言葉は「なんでも好きなもんになったら」。拍子抜けだ。しかし「ただし」がついた。
「ただし」
「え?」
「高校だけは出とけ」
いや、それが無理やから落語家になる言うてんねんけど。親父もあんまり人の話を聞いとらんなと思ったが、これは絶対条件と言われた。
まあ父親も「まだまだ子供や、高校の3年間で気持ちも変わるやろ」ぐらいに思っていたのかも知れない。
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さあ大変なことになった。行かないと決めていた高校に行かなければならなくなったのだ。次の日学校へ行って高校のパンフレットを読み漁った。
年末になるとどこの私立高校もパンフレットを配っている。
まず絶対に行けない学校からはずしていった。女子高、当然最初にはずした。そしてオチケン(落語研究会)のある学校を探した。
当時(昭和40年代後半)にはかなりの高校にオチケンがあった。そして最後に学力的に行ける学校を探す。そんな学校があるのかと思ったが、ありがたいことに当時は私のような落ちこぼれでも拾ってくれる私立学校がいくつかあった。
もちろん入試に向けてそれなりの勉強はした。とくに数学は付け焼刃ながら塾にも行った。そしてなんとか合格した。
大阪府茨木市にある関西大倉高校。言っときますがこの学校、今では「超」が付くくらいの進学校になっています。はっきり言って私が入学したときの学校とはまったく別の学校になっていると言っても過言ではない。
昔も名門校だったらしい。学校にも波というものがあるのだろう。私が入ったときはその波がいちばん底になっていたときらしい。
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とにもかくにも入学し早速オチケンに入部した。
寄席つむぎの第二話にも書いたが、勉強するために入ったわけではなく落語家になるための第一ステップとして入った学校(学校側には大変失礼な話しだが)なので、入学してからも勉強は最低限のことしかしなかった。
オチケンの活動と高校生の落語組織の上方落語寄合会の活動に明け暮れて、このあたりの様子は寄席つむぎ第二話に詳しいのでそちらをご覧いただきたい。
そして高校3年在学中に桂小文枝師匠、のちの五代目桂文枝師匠の元に入門を許されたという次第。
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と、ここまで話すとたいがいの人が「枝女太のことはええねん。プロになって頑張ってんのはわかってる。中学時代に落語をしようと言い出して、毎日落語を聞かせた友達、いわば枝女太の最初の師匠はどうなってん?やっぱりプロになったんか?」と聞いてくる。
まあ、気になりますわね。
結果から言うとその友人はプロにはならなかった。
だいたい頭の構造が我々凡人とはちょっと違っていた。私もたいがい物覚えは良かった方と思っているが、彼は・・・ちょっと違う。一度聞いたらそれで覚える。落語だけでなく勉強に関しても一回本を読んだらそれで覚える。また読むのも早い。
その後彼は大阪府下で一番といわれている公立高校に入学、そうです、十三にあるあの学校、橋下元知事・市長が通っていたあの学校。そして大学は・・・京都にある国立大学に行きました。そうです、あのノーベル賞学者をたくさん輩出している大学です。
大学院まで進んだあと誰でも知っている超有名な一流建築会社(ゼネコン)に就職し数々の有名建築物を作り海外赴任もし、60を過ぎた今もそこで指導的な役割を担っているそうです。ハァ~。
もしあのとき家に落語のレコードがなければ、私だって今頃は財務省か外務省の偉いさんに・・・それはないか。
冗談はともかく、彼のおかげで生活は・・・気楽で楽しい人生を送らせてもらっています。
昨年あたりから彼も少し時間の余裕ができたらしく、またゆっくりとと言っていた矢先のコロナ渦。旧友と飲みに行けるのはいつの日になるのやら。