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③弟子~師匠五代目桂文枝と歩んだ道:桂枝女太

桂枝女太

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大好評、桂枝女太師匠の思い出コラム第3弾です。五代目桂文枝(当時、小文枝)師匠に入門を許された高校生の枝女太師匠。まだ卒業まで間がありますので、本格的な弟子修行は始まっていません。

そんな入門仮免許時代のことについてつづっていただきました。43年前の思い出が色鮮やかによみがえります。必読です!

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弟子

入門は決まったもののまだ正式に弟子になったわけではない。

高校2年生、1年半以上の高校生活が残っている。それからは土曜の午後や日曜は師匠の出る落語会に顔を出したり、たまには玉出のご自宅へ行ったり。また高校生落語の組織である上方落語寄合会の仕事もこなしたりと充実した生活が続いた。

もちろん学校へは行ったが勉強をする時間は学校の授業だけ。当たり前の話しだが成績は下がる一方、ほとんど授業について行けなくなっていた。

それでも担任には弟子入りの件を話しておいたので、成績についてはなにも言われなかった。2年生半ばですでに就職が決まったのだからそれはそれでいいかという感じだったと思う。理解のある担任で助かった。ちなみにその先生とはいまだに交流があり、独演会などにも必ず来てくださる。

そうこうしているうちに兄弟子さんたちにも顔を覚えてもらって、落語会の楽屋への出入りも許されたりと、気分だけは小文枝一門。

高校3年生の12月のある日、師匠から電話がかかってきた。「元日に弟子がみな集まるさかい、うちへおいで」嬉しかった。兄弟子さんたちに正式に紹介してもらえる。

1977年1月1日、玉出の師匠のお宅に弟子全員が集まっていた。当時は元日には師匠のお宅にご挨拶に行くというのがルールだった。度々落語界に出入りしていたので、ほとんどの兄弟子さんとは面識があったが、それでも緊張した。

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当時弟子は10人。

上から三枝(現・六代文枝)、きん枝(現・四代目小文枝)、文珍、文太、小軽、文福、文喬、文也、枝織(現・小枝)、おも枝(後に廃業)。

師匠が皆に紹介をしてくれたあと「2階の床の間にお鏡が飾ったあるさかい見ておいで」と言ったのでひとりで2階へ。何度かお邪魔していたので様子はわかっていた。

床の間を見るとなるほどお鏡餅が飾ってある。だが一般家庭のお鏡と違うところは大きな鏡餅が床の間の上手、向かって右端に飾ってあり、その横に小さいお鏡餅がずらっと並べてあった。

よく見るとそれぞれに紙が垂らされていて名前が書いてある。上手の大きいお鏡には小文枝、その横の小さいお鏡には三枝、きん枝、文珍・・・と、順番に並んでいた。

「へぇ、落語家の家はこんなんすんねんや」

ちょっと新鮮な気分で見ていくと一番下手、つまり左端に「枝女太」という紙が垂らされたお鏡が。「え?なに?これ誰?・・・ひょっとして・・・俺の芸名???」生まれてこのかたこんなに心臓が鳴ったことはなかった。京都花月の楽屋で師匠に会ったときもここまでドキドキしなかった。

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芸名がついた?ホンマかいな、メッチャ嬉しい!ところがなんと読むのかわからない。普通に考えれば、シメタかな。うん、多分そうだろう、シメタ、ヘンな名前。

下の座敷へ下りていくと師匠が「一番左にあったやろ、シメタと読むんや。お年玉代りに芸名やるわ。今日からおまえ枝女太さんや、頑張りや」兄弟子全員が拍手をしてくれた。

最高のお正月だった。

しかしながら三学期がまだ残っている。卒業したわけではないのだ。卒業式は2月末。

それまでは師匠の鞄持ちもできない。ということは正式な弟子ではないのか?いやいや芸名を貰ったのだから正式な弟子でしょう。

ということで、自分の口から弟子にしてくださいと言うこともなく、流れに乗ってフェイドイン的な入門になってしまったが、自分の中で正式な入門年月日は芸名をもらった日、1977年、昭和52年の1月1日と決めている。

この日、上方落語界に桂枝女太という名が加わった。

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