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【追悼】②きふね寄席にヤンキー~林家市楼師匠と共に過ごした日々:ふじかわ陽子

ふじかわ陽子

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令和4年11月14日、林家市楼師匠が42歳の若さで他界。五代目林家染語楼襲名を目指し、邁進する最中の出来事でした。昨日には葬儀が執り行われ、林家市楼師匠は本当に極楽座へ。

寄席つむぎ代表のふじかわ陽子は林家市楼師匠と長年親しくさせていただいており、数々の思い出が頭をよぎります。まだ亡くなったとは信じたくない気持ちでいっぱいです。

この記事では、林家市楼師匠の思い出を語らせてください。

なお、この記事では林家市楼師匠を友人として描きたいため、敬称を「くん」とさせていただきます。他、登場する芸人さんたちも、ふじかわ陽子が普段使用している敬称にさせてください。

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きふね寄席にヤンキー

私と市楼くんが初めて出会ったのは平成13年(2001)9月、尼崎市で開催されている「きふね寄席」の会場。その日、私の元・師匠が「きふね寄席」で出番があり、鞄持ちで同行した。私は4月1日入門だったので、講談師になって約半年のころだ。

阪神本線出屋敷駅から徒歩10分ほどのところに、会場である貴布禰きふね神社はある。とても歴史深い建物で身が引き締まったことを思い出す。建物だけでなく建具も素晴らしい。たくさんある座敷のうち1間が楽屋として使われていた。当時は桂文紅ぶんこう師が中心になって開催されていたはず。

本来なら最も下っ端の私がきりきり舞いをすべきなのだが、この日は違った。入門前の市楼くんがいたからだ。

今見ると泥酔直前の表情。危険水域(クリックで拡大)

本番前に会場である広間へ、四代目林家染語楼師匠がおいでおいでと手招き。「うちのせがれやねん。なんか落語やりたい言うて」と紹介していただいたのが市楼くん。いかにもヤンキー上がりといった細い眉と鋭い目つき、髪色は黒ではあるものの当世風のヘアスタイルの柄の悪い青年がそこにはいた。この時は見習い期間だったので、芸名はついていない。

「鹿田圭人です」

と本名で挨拶をしてもらった記憶がある。当時、市楼くんは21歳で私は24歳。ヤンキーのような見た目とは裏腹に、しっかりとした挨拶だった。楽屋仕事をやらせても、さすが噺家の息子。私よりテキパキと動き、何だか申し訳ない気持ちになったのを覚えている。この時は、ちゃんとした人だと思っていた。「この時」は。

小学生に『代書』を披露する市楼師(クリックで拡大)

楽屋におられたのは桂文紅師と林家染語楼師、内海英華師、そして私の元・師匠。あともうひと方出番があったはずだが、思い出せない。

いよいよ開演。大広間は満員御礼、笑いで建物が揺れるほど。私も早くこうやってお客さんを笑顔にしたい、そう思った。今思えば一流の先輩方の高座を袖から拝見するなんて、とても贅沢なこと。最上級の勉強をさせていただいた。

余談になるが、この日は甲子園でタイガース戦が開催されていた。そのせいで、トリの染語楼師が高座に上がっておられる最中に世話人の方から、女の子は先に帰ってほしいとお願いをされる。

「怪我されたら困るからね。タイガース戦がない時にまたゆっくりおいで」

先述した通り、「きふね寄席」の最寄り駅は阪神本線出屋敷駅。甲子園から大阪方面へ戻る途中駅だ。車内でタイガースファンにいちゃもんをつけられてはならんという心遣い。嬉しかった。おかげで快適に梅田駅まで戻れました。有難うございます。

現在の「きふね寄席」は、文紅師が平成17年3月9日に極楽座へ旅立たれから、当代笑福亭松喬師匠が中心になって年3回開催されている。

つづく

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