令和4年11月14日に急死された林家市楼師匠。5キロマラソンの次の日に帰らぬ人になりました。突然の別れに心の整理ができないため、始めたのがこの思い出コラムです。今回で最終回を迎えます。筆者のふじかわ陽子と林家市楼師匠との思い出、じっくりお読みください。
なお、この記事では筆者のふじかわ陽子が林家市楼師匠を友人として描きたいため、敬称を「くん」とさせていただきます。他、登場する芸人さんたちも、ふじかわ陽子が普段使用している敬称にさせてください。
夢と現の狭間で
今から9~10年前、市楼くんの大好きなお母さんが肝臓がんで逝去。市楼くんの酒量は常軌を逸するようになった。一度、ハイボールの空き缶を、天井まで積み上げた写真を送ってくれたことがある。
「今川のサグラダファミリアや」
難しい言葉を知っていて驚く。
染丸師匠をしくじりまくっていたのも、このころで。破門状を演芸界全てに送付されるまでのことをしでかした。ただ、本人にあまりダメージはなかったらしい。これで自由の身だと言っていた。嘯いているだけだったかもしれないが。
私に対する暴言も酷くなる。それでも縁を切ることはできない。例えクソ電であっても、市楼くんと話ていたかった。ただ、気になることがあった。それは現実感のなさ。
例えば、私の母親が平成23年2月に乳がんで死去した際、市楼くんは葬儀に参列しなかった。知らせの電話をかけた際には電話越しにも分かるほど大泣きをしていたにも関わらず、今の今まで線香の一本も上げにきていない。その理由を数年後に尋ねたところ、こんな返事が返ってきた。
「線香を上げに行ってもうたら、もうほんまに会われへんって分かるやん。また会いたいねん。朝のええ天気の中、青い車で迎えにきてくれて、終わったら嬉しそに褒めてくれる。そんな人、オレにはおらんから」
夢の中で大切な人と会うために、現実をおざなりにする。大切なのは、夢の中。
もしかすると、私の存在も市楼くんの夢の中にあったのかもしれない。10年近く顔が見られない友人。酩酊状態で、夢か現か分からなくなってから電話で話す友人。
普通なら縁を切っていてもおかしくない関係だ。でも、「私」は市楼くんの夢の中にいたから、ずっと友人でいてもらえた。20代のころ、二人でお話会をしていた姿で。
令和2年12月、最後の大げんかをした。このころ、市楼くんは夢の中から私を引きずり出している最中だったと思う。すでに私は寄席つむぎを開始し、色々と動き始めていたからだ。市楼くんの中には現実の私と夢の中の私の2人が存在して、混乱をきたしていた。これが分かっていたのに、私も暴言を吐いた。
喧嘩の原因は、落語会出演の打診をした際の伝え方が悪かったということ。一般的な打診だったはずだが、市楼くんはこう電話口で怒鳴った。
「もっとオレをタレント扱いせえ!」
「アホか、負け犬根性が染みつき過ぎやで」
私も言うたらアカンことを口にした。このレベルの喧嘩は、経験上1年以上は寝かしておいた方が良いと知っているので、今の今まで連絡しなかった。もっと早くしておくべきだった。
市楼くんは負け犬ちゃうのにな。滑ってもしくじっても、ずっと高座に上がり続けた。ほんまもんの負け犬は、高座に上がるのを諦めた私や。
なあ、そっちでもずっと高座に上がり続けてや。これから五代目林家染語楼の襲名披露もあるんやろ。しっかりやりや。
極楽座には、師匠である四代目林家染語楼師匠だけでなく、お祖父ちゃんの三代目林家染語楼師匠もそばにいてくれるから心強いはず。子供のころに可愛がってもろた四天王もそろっている。
そっちは、大好きなお母さんもお祖母ちゃんもいてくれる世界。客席には私の母親が。
もうな、苦しまいでええねんで。頑張って頑張って、足掻いて足掻いたことは、みんな知ってんねん。そろそろ肩の力抜いて、気楽な高座でええと思うで。
私は50年後ぐらいに行くから、そん時はよろしく。先に謝らせてな。あんたは嫌がるやろうけど。
またな。飲みに行こう。
おわり