笑福亭羽光師匠は令和4年10月21日~25日まで浅草演芸ホール夜席の主任を務められました。その時に感じられたことについて、今回はつづっていただきます。
助けてくれた仲間のことや、笑福亭羽光師匠の手で作られた「私小説落語」について。タイトルの「創作して生き抜いて」の意味は?じっくりお読みください。
読者の皆さま、自身の私小説落語を創作して生き抜いて下さい
10月下席21日~25日まで、浅草演芸ホール夜席の主任を仰せつかった。
真打昇進から1年半での主任は早い方で、落語芸術協会の先輩落語家でも浅草演芸ホールで主任まだの落語家も多い。そんな中、僕が選ばれた。正直、集客しないといけないプレッシャーでいっぱいである。
まずやはり人気のある元成金メンバーに出演を依頼した。大人気の神田伯山は忙しくて出演出来ず、笑点メンバー桂宮治も都合がつかないとの事。
しかしそれ以外の、小痴楽、A太郎、鯉八、伸衛門、小笑、昇々、柳若、昇也が中入り後出演してくれた。
それプラス、中トリには人間国宝神田松鯉先生や師匠鶴光も出演し、お笑い交互枠を貰い、お笑い時代に付き合いのあったコント師、漫才師が日替わりで出演してくれた。
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僕は寄席の流れを気にする落語家である。どんなネタが受けているのか、他の出演者は僕をいじっているのか、いじっていないのか。等。
中入り後は、気を使わない仲間に出演してもらったので、安心して自分の高座に集中できる。古い付き合いだし、皆腕があるので、必ず盛り上げてくれる。
団体が入った事もあり、毎日大入りで大変お客さんの乗りもよかった。
初日は、紺野ぶるまが下ネタの流れにしてくれたので【私小説落語~文化交流編】(ホームステイに来た外人さんにオナニーを見つかる噺)を口演し、客からは初日から飛ばしすぎだと注意された。
照明をいじれる事が判ったので、スタッフに客電を落としてもらい、真っ暗で口演した。
2日目は【私小説落語~青春編1】(高校時代の恋愛噺)、3日目は【拝啓15の君へ】(下ネタからの母の死を後悔する噺)、4日目に【私小説落語~思い出のプリクラ編】(お笑いを始めた頃の失恋噺)、そして千秋楽が【私小説落語~お笑い編】(お笑い芸人として挫折し、解散するまでの噺)をした。
偶然にも講談の連続物の様に、僕の人生を時系列になぞった私小説落語が連なった。
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自分で口演しながら改めて、恥の多い人生だったと気づく。
高校生の頃は、性的に恥じをかき、恋愛で恥をかき、母の死を乗り越えられなかった。
芸人になったが売れずに挫折した…それでも生きている……。
親にオナニーを見つかって怒られた時とか、自殺してもおかしくないくらい恥ずかしかった。何日も悩んだ。親と会話も無くなった。自分だけがこんな不幸だと思った。でも何とかつらい日々も終わり、大学生になった。母の死を自分のせいだと自分を責め続けた事もあった。
お笑い芸人として売れず、酷い失恋も繰り返した。コント師として売れず解散して露頭に迷ったが、人生は続いていった。落ち込んで数年が過ぎて何とか落語家としてやっていけるようになった。
今なら、過去の失敗も失恋も恥も笑って皆さまに聞いていただける。時がたったら、過去の悲劇は、私小説落語…という作品になるのだ。
今、私小説落語…という形式が、懺悔の方法に適している。自分の過去を整理するのに適していると、再認識した。
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千秋楽、僕はお客様に向かって、一つのメッセージを伝えようとした。
「人には避けられない不幸や、悲しみや恥が襲ってきます。けど、皆さま自身の私小説落語を作って、俯瞰で人生を見つめて、それを出来るなら笑いに変えて、生きて欲しい…」と。