上方落語の歴史に残る年、それは昭和47年2月。六代目笑福亭松鶴師匠をはじめとした上方落語家悲願の落語の定席が誕生しました。その名も「島之内寄席」。その当時の様子を桂春若師匠に振り返っていただきました。
桂春若師匠は21歳、三代目桂春団治師匠は42歳、上方落語協会会長の六代目笑福亭松鶴師匠は56歳の時のこと。昭和47年の島之内を思い浮かべながらお読みください。
島之内寄席、その1
去年の暮れ、桂吉弥さんの演ってる『桂吉弥のお仕事です。special in島之内教会2019』に出演さしていただきました。毎年年末に一週間演られているようです。
帰り際に教会の方から「春若さん、昔よりシャベリやすくなかったですか?」と聞かれました。
「ハイ、とても響きが良く楽に喋れました」
昔というのは、ご存知の方はご存知やろうし、ご存知やない方はご存知ないと思いますが、この教会は昭和47年2月上方落語協会初の定席「島之内寄席」の始まった場所、大阪の噺家の聖地です。
当時、上方落語協会会長・六代目笑福亭松鶴師匠が「大阪の噺家が50人に成ったら定席を作る」と仰ってました。入場料440円、落語10席、色物1組の合計11本の番組で5日間。夜6時開演です。
昭和47年2月21日が初日でした。
その前日、松鶴師匠のお知り合いの「立田舞台」の棟梁がボランティアで造ってくれはった書割を道頓堀中座から島之内教会へ何度も往復して運びました。
舞台作りの中心は笑福亭璃鶴、畳敷きは桂米太郎が主任(自分で云うてました)。
私は寄席が終演(ハネ)てからの客席での打ち上げの酒肴の調達です。
「一芳亭の焼売」「丸十のお寿司」(仲入で販売してました)「道頓堀のたこ焼き」…etc
設営が一段落つくと、松鶴師匠がポケットマネーで「メシ食べといで」と。
魚好きの連中は「はま鮓」、肉派は「バラの木」でご馳走になりました。
初日昼過ぎ、準備で教会に着くとビックリする程、たくさんのお客さんが並んでおられました。
5日間の公演はいづれも大入り満員。
中には落語が終わるごとにひざおくり(お客さんに少しずつ詰めてもらう)をしても入り切れず、お帰りいただいた日もありました。
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松鶴師匠の出番は4日目、一番入りの悪い日でした。(それでも満員です)師匠はわざと御自分のトリの日、その番組を造らはったと思います。
その日、2階の物置部屋で聴かせて頂いた『高津の富』が忘れられません。
今も落語ファンの方で、アノ時客席に居てましたと云う方とお話する事があります。富札を読み上げる声、「当たった当たった」と腰を抜かす甲高い声。今も脳裏に残っています。
一生一代最高の”富”でした。
「この島之内5日間を10日に、10日を半月に、半月を一カ月毎日公演できるようにせなアカンで」と仰ってた松鶴師匠。表の階段を上がった処で協会の半纏を羽織って、デンと座って「おこしやす」とお客さんを迎えてはった六代目師匠の姿、今でも思い浮かびます。
そしてその年の11月、神戸柳原柳笑亭、年明けて千里セルシーホール千里繁盛亭がオープン致します。
ところがこの島之内教会の寄席が、わずか2年で終わってしまいます。