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うぶごえ~麗しのタカラヅカ:桂春雨

桂春雨

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繊細華麗な高座で多くの人を魅了した三代目桂春団治師匠。その志を受け継ぐ桂春雨師匠もまた、繊細華麗な高座の落語家です。春雨師匠の繊細華麗の源の一つが、宝塚歌劇だそう。

今回は春雨師匠に宝塚歌劇団の誕生について解説していただきました。まさかそんな経緯で……。煌びやかな舞台のうぶごえを一緒に耳にしましょう。桂春雨師匠のコラム第2回の開幕です。

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うぶごえ

みなさん、ようこそ『麗しのタカラヅカ』へ。ご案内役の桂春雨です。

前回は、ほとんどが私に自己紹介になってしまったので、今回から少しずつ宝塚歌劇やその周辺の話を書かせていただきます。

このコラムをご覧になっている方は、落語や演芸に興味を持っている方が多数を占めておられることでしょうから、そもそも『宝塚歌劇とは何ぞや』というところから紹介したいと思います。

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ウィキペディアで『宝塚歌劇』の歴史を調べると、まず初めに『阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道創始者の小林一三が、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に想を得て、1913年(大正2年)に結成した宝塚唱歌隊を前身とする』とあります。

阪急電鉄の創始者の小林一三翁が宝塚歌劇を作ったというのは有名ですが、最初は『宝塚唱歌隊』だったのですね。それに先行して三越や白木屋(今の東急百貨店)にも音楽隊があったとは知りませんでした。さらに調べると大丸にも少年音楽隊があったそうです。

三越や白木屋や大丸の音楽隊は残っていませんが、宝塚歌劇は未だに続いています。これは宝塚唱歌隊が、すぐに『宝塚少女歌劇養成会』に改称したのが良かったのでしょう。

つまり『音楽隊』から『歌劇』に舵を切ったのが功を奏したのですね。歌と音楽から、歌と音楽と芝居と踊りと、芸の幅が拡がったことが今の宝塚歌劇の発展へとつながっているのです。

そもそも、なぜ宝塚に『唱歌隊』が出来たかと言うと、これもウィキペディアですが『宝塚新温泉の室内プール「パラダイス」が閉鎖された際、これを活用して集客のために温泉場の余興として、少女たちが歌を披露する目的で組織され』とあります。

宝塚新温泉というのは、小林一三さんが電車の乗客を増やすために、武庫川の北側(今の新しい宝塚ホテルがあるあたり)に拵えた温泉です。

川向うの南側には、歴史ある宝塚温泉があります。宝塚温泉に勝つには娯楽施設が必要だというので、新温泉に『宝塚パラダイス』という室内プールを作りましたが「目の前に武庫川が流れていてタダで泳げるのに、室内プールで誰が泳ぐねん」というようなことで(これは私の想像ですが)たった2ヶ月で潰れてしまったそうです(こちらは事実)。

小林一三翁の先を読む目は素晴らしいのですが、室内プールに関しては少し時代が早過ぎたようですね。

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しかし、転んでもただでは起きないのが小林一三。「プールの場所がもったいない、この場所を使って余興を見せよう。」と、一三翁の頭にひらめいたのが『宝塚歌劇』の始まりです。

宝塚歌劇の初公演は、1914年4月1日。今から106年前です。プールにフタをして客席に、脱衣所の場所が舞台となりました。その名も『パラダイス劇場』。

演目は、桃太郎を題材にした歌劇『ドンブラコ』。6年前の宝塚歌劇100周年記念公演で、専科(これはまた別の機会に説明します)の轟悠さんが主役の桃太郎、犬猿キジが、それぞれ明日海りお・紅ゆずる・早霧せいな(3人とも当時2番手スター。これも説明が必要ですね)、という豪華な配役で再演され評判になりました。

私も『タカラヅカ・スカイ・ステージ』(CSの宝塚歌劇専門チャンネル。これもまた説明します)で観ましたが、このコラムをご覧のみなさんにも観せたかったです。

今回は『宝塚歌劇とは何ぞや』ということを紹介しようと思っていたのですが、『宝塚歌劇の始まり』を書いたところで紙幅が尽きてしまいました。この続きは、また次回以降のお楽しみに。

みなさま、次回もぜひ見にいらしてください。

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7月17日には天満天神繁昌亭で春雨師匠出演の『上方らくごカルテット』が開催されます。こちらも要チェックです。

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桂春雨師匠はTwitter(https://twitter.com/harusamek)も随時更新中。公演情報はこちらをチェックしてくださいね。