年齢を重ね若いころと変わったと思っていても、実はあの頃と変わらないと気付く瞬間はないでしょうか。笑福亭羽光師匠は、そう感じた瞬間が先日あったのだそう。それは日本海側にある3県を巡っている最中に訪れたといいます。さて、どんなシチュエーションだったのでしょうか。
今年50歳を迎えられるからこそ、笑福亭羽光師匠も振り返る余裕が出たのかもしれませんね。じっくりお読みください。
延長線上の人生
富山でその日、16時に仕事が終わった。
その日のうちに、山形に着きたい。富山から山形へは、地図で見ると日本列島を横切るルートが直線距離としては近いのだが、電車を乗り継いでもその日のうちに到着出来ない可能性がある。
僕は、新幹線で大宮まで戻り、そこから山形に向かうルートをとることにした。
山形に着いたのは22時を回っていた。
翌日は山形での初の噺館での独演会、しかも昼夜二回公演である。
多分僕は山形は初である。道行く人達の言葉もわかるし、言葉の壁はなさそうだ。かなり気合が入った状態で就寝した。
昼は通常のSF落語やエロくない新作落語の会、夜公演は完全にR18落語会としてドギツイ下ネタをやるのだ。
両公演共、反応もよく、山形の若い方に伝わったようだった。
昼間サクランボを差し入れしてもらい、一人で全部食べた。
夜は主催者と打ち上げに行って日本酒でへべれけになる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、8時のバスで新潟に向かう。
新潟市内【今時書店】で、新潟大学の落研の女子部員と共演しての落語会だ。
落研部員たちが音響や受付も手伝ってくれる。
僕も大学時代は落研だったので、今の落研事情を探るべく、楽屋でなるべく会話する。
現役落研と会話しながら大阪学院の落研時代を回想せずにはいられない。
僕の頃はテレビに落研が出れる時代だった。テレビに出た次の日は、学園で声をかけられてうれしかったっけ。学園祭では人気者になれたっけ。
僕はきっと、大阪学院の落研時代の延長線上の人生を生きている。あの頃とあまり変わっていないのだ。つくづく適当にやりたいことだけやって生きてこれた運の良い人生だった……と思う。
そんな事を回想しながら落研部員に話を聞くと、コロナ渦で大学生らしい遊びは何もしてないそうだ。
僕は就職難の時代で、就職活動が嫌でだらだらと芸人になったが、新潟大学は国公立だし就職状況も良いらしい。
間違っても彼らは、芸人になどならず、企業に就職して、僕を忘年会で呼んでくれる偉い人になってほしいと願った。
翌日、関川村に向かう。
ここで新潟出身落語家の瀧川鯉津と合流する。
村の中にも僕を知っている中学生が居て、よく笑ってくれた。