1995年に起きた阪神淡路大震災と2011年に起きた東日本大震災。日本を文字通り大きく揺らがせた出来事です。この2つの大震災を通じて気づいたご自身の成長について、笑福亭羽光さんにつづっていただきました。
振り向くと、ずいぶん遠くまで歩いてこられたよう。笑福亭羽光さんのエッセイ、お楽しみください。
鷲崎健さんと、2つの地震について
ある日、ツイッターでエゴサーチすると、僕の事を鷲崎健さんがラジオで喋ってくれた……という内容が出てきた。
鷲崎さんは僕が大阪でお笑いをやっていた頃の知り合いで、今は声優やアニメ関係のラジオパーソナリティーをされている。そっちの方面に全く知識が無いが、かなり有名らしい。
大阪でお笑いを始めた頃、21歳~24歳位の時カルトかるとという漫才をくんでいた。ケーエープロダクションという小さい事務所に所属し、同じような小さい事務所でお笑いをやっていた数組で自主ライブを行っていたのだ。
鷲崎さんもその中の一人である。
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その頃思い出すのは、神戸の地震である。地震発生から2週間後位に僕らカルトかるとと別の漫才師で神戸に慰問に行ったのだ。仮設住宅が出来る前段階のテントだったと思う。
空き地に被災された方が集まってくれたのだ。よくそんな自分勝手な事をしたな……と今なら判る。しかし一個でも多く舞台経験をしたかった僕らは、他人の気持ち等関係無しに神戸に行ったのだ。
有名でも無い漫才も下手なシロウト同然の僕らは当然受けるわけもない。家や家族をなくされた被災者の前で僕らは全く無力だった。
数十年後、落語家の前座生活が終わろうとしていた僕は、上野広小路亭で東日本大震災を経験する。
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その数年後、石巻や気仙沼等の被災地に落語家として訪れた。仮設住宅にまだわずかに残っておられる人達が居間に集まってくれて、そこで落語を聴いてもらうのだ。
東日本大震災からだいぶ時間がたっていたからなのか、よく受けたし、東北のお婆さん達は底抜けに明るかった。それから数年間東北に行き続けた。東北に知り合いも増えた。
仮設住宅で20人位のお客さんを笑わす事は、大ホールで満員のお客さんを笑わしたり、売れる事と同じ位価値がある……と感じる。どんな人にも伝わる落語、相手の心に響く落語をしたい……と強く思う。鷲崎健さんのラジオは、心に優しく響いた。